【古本という愉しみ】
『俳風動物記』
三島ゆかり
『豆の木』第15号(2011年4月)より転載
とある絶版フェアで宮地伝三郎『俳風動物記』なる本を購入した。1984年に出た黄色時代の岩波新書で、著者は動物生態学専攻の学者。目次は以下。
Ⅰ 香魚のすむ国
香魚のすむ国
Ⅱ 水辺の優位者たち
カワウソと獺祭
水郷のおしゃべり鳥・行々子
カイツブリの生活と行動型
Ⅲ 俳諧師との湖沼紀行
アメノウオと湖沼類型
イサザの幼態進化
タニシを鳴かせた俳諧師
三種のシジミと環境語
Ⅳ 不殺生戒の時代
蚊を焼く
放生会
川狩りの記憶
これらの話題について、著者は動物生態学の立場から俳句の解釈を試みる。そのアプローチの仕方が日頃読み慣れた俳書とはかなり異なるので、非常に興味深い。世間的にはあまり評価の高い本ではなかったのかネット上では多くの古書店が1円(+送料)で売っている現状だが、読んでみるとじつに面白い。取り上げられた句はほとんど江戸期のものだが、著者自身の句(俳号・非泥)も少なからず掲載されている。
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例えば、「タニシを鳴かせた俳諧師」の章である。山本健吉の『最新俳句歳時記』で「古来田螺鳴くと言っているが、空想である」と片付けられているような季題について、著者は延々と論考する。
タニシの鳴き声を聞いた人がいるだろうか。ちかごろは水田地帯を歩いてもタニシを見かけることさえ希なのだが、近世の俳人たちは、日常のこととしてその鳴き声を聞いていた。
韮くさき垣の隣りを鳴くたにし 祥禾
春嬉したにしの鳴くに及ぶまで 葛三
桃さけか桜咲けとか鳴くたにし 玉峩
田螺鳴き柳くもれる野末かな 為十
鳴くものの拾ひかねたる田螺かな 頓吾
夕かげや水の浅黄に田螺なく 花県
こけ落ちて田螺つぶやく水の音 嘯山
田螺鳴く小田のたんぽぽ打ちほけぬ 暁台
春、それも昼間に鳴いている場面が多いように見えるが、そうとばかりは限らない。夜も鳴く。
菜の花の盛りを一夜啼く田螺 曾良
田螺啼いて土臭き春の夕べかな 保吉
鳴く田螺きかんともなく聞く夜かな 保吉
たにしなく夜は淋しいに蚤ひとつ 撫節
これらの句を列挙したのち曰く、
それにしても、これほどの俳人が鳴くのを聞いたというのに、タニシの発声器官も聴器も見あたらない。タニシの身代わりとして、ほんとうに鳴いている動物が別にいるのではあるまいか。
と論を展開する。ふつうに俳句に親しんでいる者であれば季題には空想のものが含まれることは常識であるが、著者にとってはそうではないのである。かくしてこの展開の中で何種類もの小動物や昆虫の話が出てくる。シュレーゲルアオガエル、ミズギワカメムシ、キンヒバリ、ミズムシ、コミズムシ、チビミズムシ…。中でもウンカの発振装置のくだりなど、実に驚くべきものがある。
稲の害虫ウンカは稲田に多く発生して、以前は大飢饉をおこすほどの損害を与えた。田圃路を歩けば、誰でも見かける小昆虫だが、それが鳴くのを聞いた覚えは私にはない。ところが、京大教授だった石井象二郎博士の研究室での実験によると、ウンカのおすの腹部第一及び第二背板には、発振装置があって、空中伝播するその振動に誘われて、めすはおすのところに寄ってくる。それは人間の可聴域外の振動であるが、適当な共振物を添えればわれわれも聞くことができる。一方、めすもその腹部を上下に動かして信号を送る。これも人間には聞えないし、ウンカのおすにも空中を伝わる音としてではなく、稲の葉で伝わる振動として受信され、配偶行動に導かれるという。どち
らの振動にも種特異性があって、異種のウンカには感応しない。
「田螺鳴く」からここまで深入りするあたりが、なんとも科学者の姿勢である。
*
「獺祭」の話も可笑しい。獺祭書屋主人・正岡子規によって知られる季題「獺魚を祭る」は「礼記」が出典であり、山本健吉の『最新俳句歳時記』(文藝春秋)では「とった魚を岸にならべてなかなか食わないと言われ、そのことを獺が正月(陰暦)に先祖を祀ると言ったもので、空想的季題である」とされる。それが『俳風動物記』ではかくの如し。
獺のまつり見てこよ瀬田の奥 芭蕉
魚まつる獺おぼろなり水の月 青橘
何魚を祭るぞ獺のかげおぼろ 文児
獺の祭りに恥ぢよ魚の店 蝶夢
などの句を列挙した上で、著者・宮地伝三郎氏は「日本の俳諧師は誰も獺祭の現場は確認していない」(!)と断定し、ライデッカー『王室自然史』(1922年)の記述を紹介する。
捕らえた魚は、小さいのは前肢でもって、背泳しながら、その場で食うが、大きいのは陸上に運んで、手で持ち、頭から食べて尾ひれだけを残す。とくに興味があるのは、魚がたくさんとれる場合で、殺したのを陸上に置いては、また、漁をつづける。そればかりでなく、殺しのための殺しをする習性があって、一かみしただけの魚を、食べないで陸上にちらかしておくのを、人が拾って食べることもあったという。動くものを見たら飛びかかって殺す狩猟本能によるのである。これらの観察は、『礼記』の獺祭魚の記述とよく照応する。もっとも、獺祭魚の魚は、食う前にまず先祖の霊に捧げるので、お下がりは食うようにも読みとれるが、ライデッカーによると、カワウソは食う必要以上の魚を殺して捨てておく。古代中国の経書、『礼記』の獺祭は架空の作り話とはいえないのである。
云々。じつに認識を新たにする。
*
「蚊を焼く」の章。昔の人は蚊帳に入ってしまった蚊を紙燭で焼き殺していたという。はじめて知った。
蚊を焼いてさえ殺生は面白き 川柳
紙燭してな焼きそ蚊にも妻はあらん 二柳
閨の蚊のぶんとばかりに焼かれけり 一茶
蚊を焼くや褒姒(ほうじ)が閨の私語(さざめごと) 其角
蚊を焼くや紙燭にうつる妹が顔 一茶
ぶんという声も焦げたり蚊屋の内 白芽
蚊を殺す罪はおもはず盆の月 写也
後の世や蚊をやくときにおもはるる 成美
独寝や夜わたる男蚊の声侘し 智月
などの句を俎上にのせ、著者は動物生態学や死生観の見地からうんちくを傾ける。今日でこそ血を吸う蚊はメスであることが知られているが、二柳や智月の句をみると江戸期にはオスの蚊が血を吸うと思われていたことが分かる。ところで其角の句、「褒姒」を検索すると面白い。(以下、wikipediaより)
褒姒(ほうじ)は前8世紀(紀元前770年)頃に、周(西周)の幽王の后として活躍した女性。絶世の美女だったといわれ、後に周を滅ぼす元凶となった。(中略)
当時幽王は申后という女性を后としていたが、褒姒の美しさに惹かれ、彼女を溺愛するようになった。その後すぐに申后を廃して、彼女を后とする。更に申后との間で出来た子供が太子であったのを廃し、褒姒との間で生まれた子を太子とするほどであった。
だが、褒姒はどんなことがあっても笑顔を見せることはなかった。幽王は彼女の笑顔を見たさに様々な手段を用い、当初、高級な絹を裂く音を聞いた褒姒がフッと微か笑ったのを見て、幽王は全国から大量の絹を集めてそれを引き裂いた。そしてそれにあわせて褒姒が微かに笑うのだが、次第に笑わなくなった。
ある日、何かの手違いで烽火が上がり、諸侯が周の王宮に集まったときである。有事でもないのに諸侯が集まったので、その可笑しさに再び褒姒が笑った。それを見た幽王は再び褒姒の笑顔を見たさに、有事でもないのに烽火をあげ、諸侯を集めるといった行為を始めた。それによって、褒姒は笑顔を見せるようになったが、周に仕える諸侯は、幽王の愚かな行為に、次第に彼を見限りはじめた。そして、后の座を追われた申后の父、申侯ら申一族が、周に不満を持っていた諸侯と、蛮族の犬戎 (後の匈奴)と手を組み、周に反乱を起こした。それに驚いた幽王は、有事の烽火を上げたが、いつもの愚かな行為と見た周に仕える諸侯は、すぐには集まらなかった。結局幽王は驪山の麓で捕えられ、その場で殺された。
要するに国を滅ぼす文字通りの「傾城」である。「蚊を焼くや褒姒が閨の私語」は、紙燭を烽火に見立てたところが眼目であろう。さて、そうすると俄然気になるのが其角の別の有名な句である。
越後屋にきぬさく音や衣更 其角
この句について小西甚一は『俳句の世界』(講談社学術文庫)で「(越後屋は)それまでは一反単位でしか売らなかった旧式の経営法を改革し、ほんの一尺二尺でも快よく分け売りをした。家計のやりくりに苦心する奥さん心理にぴたりとマッチしたこの新案は、俄然、大好評。「絹裂く」はその分け売りをさす」と書いている。もちろん表向きはそうなのだろうが、こちらの句も実は褒姒を踏まえた裏の意味があるのではないだろうか。つまり其角なら「さんざん儲けて、女かこって幽王みてえなことしてんじゃねえか」という皮肉を込めたのではなかろうか、と思う。そう思って堀切実編注『蕉門名家句選(上)』(岩波文庫)および半藤一利『其角と江戸の春』(平凡社)をあたってみたが、あらあら、そんな読みをするのは私くらいのようであった。さて、『俳風動物記』に戻る。
蚊を入れないように子供だけを蚊帳に入れるのは「子福者の蚊帳へ数へてつつきこみ」(武玉川)のように技巧を要するのだが、一旦入った蚊は、耳もとへブーンと、高い羽音を立ててやって来るので、とても寝つかれない。掌で打ち殺すのも、ねぼけていてはうまくゆかない。そんな時には、おもい切りよく起きて、根もとを紙で包んだろうそくの灯を用意する。蚊帳に止まった蚊にその炎を近づけると、鳴き声を出す間もなく、ジュと音を立てて、灰も残さず消滅する。血を吸ってふくれあがったのは、多少の手ごたえがある。子供にはやらせてもらえない作業だが、焼殺の効率はよくて、短時間にして安眠が得られる。
いささか脱線するが、ここから分かることは「蚊帳は容易に燃えない」ということである。それで思い出すのが、三島由紀夫『金閣寺』の放火シーンである。
最初に運んだのは、吊手を除いた蚊帳と敷布団一枚である。次に運んだのは掛布団二枚である。次はトランクと柳行李である。次は三束の藁である。これらを乱雑に積み上げて、藁の三束は、蚊帳や布団の間にはさんだ。蚊帳が一等火がつき易いように思われたので、それらを半ば他の荷の上へ拡げるようにした。(十頁ほど中略)火は藁の堆積の複雑な影をえがき出し、その明るい枯野の色をうかべて、こまやかに四方へ伝わった。つづいて起る煙の中に火は身を隠した。しかし思わぬ遠くから、蚊帳のみどりをふくらませて焔がのぼった。あたりが俄かに賑やかになったような気がした。
おそらく放火した青年僧は蚊を焼いたことがなく、一方作者の三島由紀夫は「蚊帳は容易に燃えない」ということを熟知していたのだろう。迫真の描写である。
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俳人の立場から興味を覚えた部分を拾って見てきたが、『俳風動物記』には動物生態学者としての発想の飛躍にのめり込むくだりが二箇所ある。ひとつはびわ湖特産のハゼ科淡水魚イサザの出自であり、もうひとつは同じびわ湖特産のセタシジミの出自である。とりわけ後者の発想はダイナミックで、門外漢の私にとっても感動的ですらある。中国に太湖という湖があり、そこにセタシジミそっくりのシジミがいるという。それに対し、なんと著者・宮地伝三郎氏は日本列島が中国大陸と陸続きだった時代にまで思いを馳せる。その時代、揚子江と当時は南流していた黄河とは合流して一本の河として南支那海に注ぎ、びわ湖と瀬戸内海を結ぶ「古瀬戸内海」はその一つの支流として、それに合流していたと推定される。よって、太湖と古びわ湖は同一水系に属していたのだ、という。実にスケールの大きい推察ではないか。これらのくだりでは、俳句の読者そっちのけで、江戸俳諧の引用もなく筆が進み、その集中がすばらしい。随想というものは「こうでなくては」と、つくづく思う。
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