八田木枯 戦中戦後私史
第4回 「みちのく」風生選巻頭を飾る
聞き手・藺草慶子 構成・菅野匡夫
≫承前:第3回 ホトトギス発行所とムーランルージュ
『晩紅』第18号(2004年3月25日)より転載
「玉藻」の問・答欄
―― 前回、ホトトギス発行所に置かれていた句稿の綴じ込みのことですが、どなたか詳しく覚えていらっしゃる方はいないかと思いまして、ちょうどお目にかかる機会があった深見けん二さんにおうかがいしたら、「それは戦前のことでしょう。話には聞いておりますが、私は実際に見たことがありません」というお話でした。深見先生は直弟子ですし、八十代になられる方です。それほどの方でも当時のことを知っている方は少ないのですね。ですから、木枯先生が十代に見聞きなさったことは資料的にもほんとうに貴重なものなのだと、あらためて思いました。
木枯 深見さんは、昭和十年代の後半ごろから「玉藻」に出句していましたね。「けん二」という、当時としてはめずらしい名前が印象的で、よく覚えています。あのころ、おそらく大学生だったでしょう。だから、僕らみたいに俳句ばかり作っているわけがないですよ。ましてや、戦争中でしょう。俳句に熱中したり、レビュー見に行ったりなど、学生ができる時代じゃなかったのです。だから、ご存じないのも無理ありません。
――木枯先生ご自身も話しているうちに、記憶の糸がほぐれてきて、忘れていたことをいろいろ思い出されておられるのではないかと思います。ぜひ、思いつくままご自由にお話しください。
木枯 この前、俳句文学館へ行ったときに、戦前の「玉藻」をコピーしてきました。これは昭和十七年ですね。このころの「玉藻」には、問答欄というのがあって、分からないことがあると、手紙で尋ねることができたのです。私はだいぶ質問を出したらしく、ちょくちょく掲載されています。
--俳句に熱中していた様子がうかがえますね。それにとても純粋です。こんなに親身になって答えてくれるQ&Aがあったなんていいですね。
木枯 しかも、答えているのは虚子です。
――たしかに。虚子がしゃべっているみたいです。「はい、私の俳話にも書いてありますが、…」などと出ています。それにしても「玉藻」は、「立子へ」とか「問・答」とか、虚子がずいぶん力を注いでリードしていた雑誌だったのですね。
木枯 それは、もう、虚子先生は、「立子」「立子」でした。よほど娘の立子さんが可愛かったのでしょう。また立子さんも才能が豊かで、句が上手でしたから…。
--虚子先生と直接お話ししたことは…。
木枯 昔は、たとえ句会でも先生に対して俳句の話をするなんてことは、まずないですよ。先生が句会の後で短く話されたことを聞いて、あとは自分で考えていくより仕方がなかったんです。
――それでは、問・答欄はありがたかったですね。
木枯 はい。ほかのホトトギス系の雑誌では、こんな欄はありません。「玉藻」だけでしたね。
「みちのく」と富安風生
――話は変わりますが、ここに赤塚一犀さんから送っていただいた「みちのく」の富安風生雑詠欄に掲載されていた木枯先生の俳句があります。昭和十九年と二十年の作で、巻頭を飾った句も数多くあります(別掲の抄出参照)。きっと赤塚さんが苦労して探してこられたのだと思うのですが、「みちのく」に富安風生というのが、よく分からないのですが。風生と言えば、…。
木枯 「若葉」でしょう。
――風生と「みちのく」とは、どういう関係だったのでしょうか。
木枯 当時はホトトギスの同人で、自分の雑誌を持っている人は、それほど多くはなかったのです。もちろん、今のようにたくさんの結社誌があったわけでもありません。「ホトトギス」があって、「玉藻」があり、年尾さんの「鹿笛」、鈴鹿野風呂(のぶろ)の「京鹿子」、野村泊月の「桐の葉」、そして大阪の「山茶花」。この「山茶花」というのは、ホトトギス系でもいちばん人気があって、大坂の人たちは全員加わっていたほどでした。ここの雑詠欄は、昭和十八年ごろ、選者が四人もいたんです。その中で、会員の投句をいちばん集めて人気があったのは、皆吉爽雨でした。それから田村木国。知っていますか。
――名前だけは。
木枯 そして中村若沙、大橋桜坡子、この四人でした。最後は、大橋敦子さんのお父さんですね。だから、ちょっと憚られるんですが、大橋さんはあまり投句が集まらなかった…。あと十五年も経てば、もっと自由にいろんな話ができるんですがね。十五年といえば、私も九十五くらいですから…。
――恐いもの知らずですね(笑)。
木枯 ええ。そう、そう「みちのく」の話でしたね。記憶では、創刊がもっと前だと思っていたのですが、昭和十九年なんですね。もう、戦争もたけなわのころです。「みちのく」は、もともと福島県下で発行されていた四つの俳句雑誌を統合して、できたものです(注=昭和二十一年に終刊)。戦時中の統制経済下では、そうしなくては紙の配給を受けられなくなっていたんです。そういう合同雑誌でしたから、選者に風生のような有名俳人を招請したというわけです。というのも、自分たちが選者では投句も少ないでしょうし、また、選者によって投句のばらつきが出て、人気の差がはっきり見えてしまうのを、嫌ったんでしょう。
――俳句大会で、投句募集をしやすくするために、著名な俳人を選者にする、といった感じでしょうか。
木枯 まあ、そんなところです。
雑詠欄の巻頭を飾る
木枯 ここに「みちのく」第二号(昭和十九年十二月号)の表紙のコピーがあります。虚子先生の「冬空」二句の原稿がそのまま表紙を飾っています。この号に名前の出ているのが、もともと自分の雑誌を持っていた人たちですね。ホトトギス系というわけではなく、土地の有力俳人たちです。この号で、私が初めて巻頭を取ったんです。鰤の句ですね。
――創刊号には投句しなかったのですか。
木枯 創刊号(十一月号)は、まだ投句欄がありませんから。投句は、二号からです。
――それじゃ、最初の号で、いきなり巻頭ですか。すごいですね。
木枯 ええ。そう、そう、先ほど言い忘れたのですが、風生先生を選者にしたのは、一つには、陸奥を読んだあの有名な句のお陰でもありましょう。
みちのくの伊達の郡の春田かな
虚子先生が「これ以上の陸奥の句は出ない」と言って絶賛した句ですし、現代から見ても、実に絶妙な俳句ですね。だから、「みちのく」の有力俳人たちも「恐れ入りました」ということになったでしょうし、「陸奥と言えば、風生」と考えたにちがいないです。
――「みちのく」のことを、木枯先生はどこでお知りになったのですか。
木枯 前回、陸軍省に勤めていたとき、橋本石斑魚(うぐい)さんと知り合ったことを前回お話ししましたが、実は、橋本さんは福島県郡山の出身なんです。そんなわけで、戦争中、たしか昭和十八年ごろに、橋本さんを訪ねて、私は郡山に行っているんです。上野駅から夜行列車に乗って、ことこと、ことこと、出かけていって、白河あたりまで行くと、ずいぶん遠くまで来た感じがあって、「ああ、陸奥か、ここからは」と感慨を覚えたものです。郡山に着くと、もう最果てに来た、そんな感じでしたね。戦争中でしたから、駅前も真っ暗でしたし…。ですから「みちのく」創刊のことは、よく知っていたんです。
インテリの街・新宿
――先生が石斑魚さんと知り合ったのは、十六歳ぐらいですね。橋本さんは何歳くらいだったのですか。
木枯 たぶん、十九ぐらいでしょ。前回話しましたが、僕が、十二指腸潰瘍で海軍病院に入院していながら、ちょくちょく東京へ出てきていたのが中学二年です。そりゃ、東京はおもしろいですからね。東京駅を降りると、目の前に丸ビルが聳えていて、あんな大きなビルはどこにもないんだから。
――たしかに、新しくなった丸ビルもお洒落で立派なビルですしね。昔もそんな存在だったのでしょうか。
木枯 「東京行進曲」の西条八十の歌詞にも入っていますね。「恋の丸ビル あの窓あたり 泣いて文書くひともある」「広い東京 恋ゆえ狭い」とか。とにかく日本中の憧れでしたからね。よく「戦争中は物がなかった」などと言いますが、そんなことはありません。ほんとうに物がなくなったのは、戦後ですから。戦争中は、お金さえあれば、どこからか知らないけれども、お酒も煙草も出てくるんです。とにかく東京に来れば、何でもありましたから、僕らにとって東京は魅力的でしたね。
――ムーランルージュとか。
木枯 ええ。そうそう、この間、深夜放送を聴いていたら、ムーランルージュのことを語ってました。あのレビューの開場は、昭和六年の十二月三十一日だったそうです。そして昭和十六年十二月八日の開戦後は、レビューは禁止になったそうですから、僕らが行っていたころは、もう最後のころだったんですね。
劇場の裏を通りぬ秋の雨
当時、作った句です。ムーランルージュなんかのあったあたりも、裏へ行くと、もう何もなくて真っ暗で、まして秋の雨なんかが降っていると、そりゃ、淋しいものでした。だいたい劇場の裏は、うらぶれて、もの悲しい感じがありますからね。
――新宿のどのあたりにあったのですか。
木枯 武蔵野館は、ご存じでしょう。あの前の通りを甲州街道の方に向かって行って、甲州街道の手前にありました。その甲州街道の向こうは、いまは高島屋ができましたが、あのあたりは、旭町というドヤ街でした。
いまでこそ、西武新宿駅のあたりとか歌舞伎町とかは、ご存じの通りの繁華街ですが、あの当時は、何もない空き地で、人の近づくような場所じゃありません。あんなところを、どうして歌舞伎町と名付けたんでしょうか。賑やかだったのは、新宿通付近だけでしたね。デパートの伊勢丹、三越、そして中村屋、高野、紀伊国屋、洋食の早川亭などがありました。
新宿というと、早稲田の学生、文学青年や絵描きなど若い芸術家たち…、当時の言葉でいうところの「インテリ」たちのたまり場だったのです。おそらく、大正の末からそうだったと思いますよ。おしゃれな銀座、大衆的な浅草とは、ひと味違っていました。
「精進なさいませ」
――前に、波郷がムーランルージュへ通っていたことをうかがいましたが、やはり、都会の芸術的な雰囲気に憧れて、地方(松山)から出てきた少年だったのでしょう。木枯先生に似ているかもしれないですね。
第一句集『鶴の眼』(昭和十四年)に出てくる波郷の青春俳句とでもいいますか、あのみずみずしい青春性は、夢を抱いて東京に出てきた地方の青年特有のものだと思います。
プラタナス夜もみどりなる夏は来ぬ バスを待ち大路の春をうたがはず
こういう、みずみずしい喜びの句は、都会に生まれ育った少年には、決して詠えませんね。しかも、生まれも育ちも性格も木枯先生と違う波郷には、よけい解放感が強かったのでしょう。
木枯 波郷がムーランルージュに通ったのは、よく分かります。つまり、あの人は銀座じゃなくて、新宿ですね。お酒を飲むのでも、ちゃんとした料亭より、暖簾に首突っ込んで立ち飲みする方が好きなタイプの人ですよ。
――暖簾に首突っ込んで…ですか。
木枯 そうです。そして飲み終わって帰りには、暖簾で手を拭いて…(笑)、そういう感じの人ですよ。
――「みちのく」の話に戻りますが、他の号を見ても、木枯先生の句が、ずいぶん取られていますね。一句だけの人が少なくない中で、四句、五句が多いですし、巻頭句もあります。
木枯 このころは、この雑誌のレベルでも、五句出して取られるのは一句か二句というのが普通でした。もっともホトトギスなら、一句取られただけで、もうたいへんです。僕なんかでも、そりゃ、「みちのく」なら通りますけど、ホトトギスはほんとうに通らないんですから。
――「みちのく」で、目立って活躍されたので、選者の風生先生から、お手紙をいただいたそうですね。
木枯 お葉書をいただきました。「あなたは大成すると思いますよ。せいぜい精進なさいませ」と書かれていました。精進というと、いまは、精進揚げぐらいにしか使いませんが、あのころはよく使われて、いい言葉ですね。そりゃ、うれしかったですし、励みにもなりましたね。だから、あのままいっていれば、おそらく「若葉」へでも入って、ホトトギス流の俳句を続けていたでしょうね。
しかし、実は、もう少ししてくると、私の句が変わってくるんです。そのあたりのことは、また先の話としておきましょう。
八田木枯少年期俳句 藺草慶子抄出
桃頭(トガシラ)の晴れゐて遠し鰤を曳く
施餓鬼会のはじまる海の横たはる
遍路宿裏を軽便がたがたと
蓮池へ門火の塵を掃きにけり
舷にくづるる線香川施餓鬼
門火焚く伊勢には古き廓町
花南瓜母屋厩と畑へだて
芝能やひらきし扇金を得て
榾主や壁をたたいて牛叱る
ふたたびの春雨強し藪襖
山川の怒りて白し梅の花
金色の蛇うづまける寝釈迦かな
「みちのく」風生選雑詠欄より
(第5回に続く)
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