2011-09-25

名古屋座談会印象記 野口 裕

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野口 裕


バックストロークイン名古屋にでかけた。前半にあったシンポジウムに思ったことなどを記す。シンポジウムのタイトルは「川柳が文芸になるとき」で、司会が小池正博、パネリストが歌人の荻原裕幸、川柳人の樋口由紀子、畑美樹、詩人で川柳人の湊圭史の構成だった。

川柳バックストローク

録音を取っていたので、そのうちにバックストロークの誌上へ載るだろうが、印象としては、2001年に川柳界が初めて本格的に開いたシンポジウム「川柳ジャンクション」の折りに荻原氏が放った一言、「川柳にはジャンルとしての自己規定がない」の検証を中心にして進んで行ったように思う。(「川柳ジャンクション」のシンポジウムの記録は、バックストロークのweb上にある。≫http://ww3.tiki.ne.jp/~akuru/back-hp/2002-1.htm

私がパネリストをつとめた、小池正博「水牛の余波」、渡辺隆夫「魚命魚辞」合同出版記念会でも、最後の挨拶に立った石田柊馬が当時の彼の発言に触れ、反発もした、自己規定のないのが自己規定だ、などと言ったりもした。だが年経てあらためて考えてみると、川柳はこれ、と決めることなどできないのではないか、そんな気がしてきた、というような趣旨で語っていた。

自己規定のないことによる不都合は陰に陽に現れる。小池の引いた例では、新聞の短歌・俳句投稿欄は文芸欄だが、川柳の投稿欄は社会面にある。荻原が引いた例では、川柳を知らない人に川柳は五七五からできていて、などと説明し出すと、俳句みたいなものですかと返ってくる。自己規定がないこととのつながりはよくわからないながらも、何となく関係ありそうだとも思える。

間接的でなく、直接の影響としては、川柳における批評の不在が上げられる。これは歴史に起因し、江戸時代の川柳における作家性の不在、それに付随して短歌・俳句に比較して批評の蓄積量に差があるとされていた。

思えば、子規以来の明治大正昭和の俳句の担い手は書生、後の時代には大学生であり、文章を書くことは慣れていた。そうした層が築き上げてきた文芸であるといえるだろう。他方、川柳は田辺聖子の「道頓堀の雨に別れて以来なり 川柳作家・岸本水府とその時代」などを読むと商家の小僧さんが担い手であったように見える。後の吉川英治、前身が川柳作家の吉川雉子郎が「貧しさも余りの果ては笑ひ合ひ」などと書いているのを見ても、この時代の川柳を支えたのは最も貧しい人々だったのではないかと想像してしまう。おなじ五七五であっても、そのジャンルの担い手には若干の階層的な違いがあったのではないか。えらく話が脇道にそれた。

自由詩から川柳に入った湊圭史は、川柳を本格的にやろうとする段になって、基礎的な資料のないことに当惑した体験を語り、しっかりした川柳のアンソロジーがぜひとも必要とも述べた。これに対して、荻原氏は湊氏が例示した数少ない本格的な資料のうち、「現代川柳の群像」(川柳木馬ぐるーぷ編)、「現代川柳鑑賞辞典」(田口麦彦編)、「現代女流川柳鑑賞辞典」(三省堂)などの書名がえらく堅苦しいこと、したがってそのアンソロジーも総花的で実り少ないことを匂わせつつ(荻原氏がそう言ったわけではない。私がそう感じたのである。為念。)、かつて塚本邦雄がものした「百句燦燦」が、個人の好みに偏ったアンソロジーにもかかわらず名著の位置を獲得したように、各人がそれぞれの立ち位置からアンソロジーを編んで行けばどうか、と提言した。しかし、湊氏は網羅的なアンソロジーも必要だと譲らなかった。

私にとって、「百句燦燦」は二十代半ばに偶然古本屋で見かけて購入して以来、折に触れてひもとく愛着ある本であり、こうした場面でその名が飛び出すことに思わず笑みを漏らしたりもしたが、どうしても湊氏の意見にうなずかざる得ない点がある。

たとえば、さきほどの吉川英治の句、ネットで検索してみると、「貧しさの」、「あまりの」など表記が若干異なる例が多々ヒットする。手持ちの川柳書は少なく、また確認に手間取る。俳句なら、句中の季語を頼りに、二三の歳時記の例句にあたるという最終手段があるが川柳でその手はきかない。結局、新葉館の「吉川英治 下駄の鳴る音」という書籍の惹起文(≫http://shinyokan.ne.jp/bookstore/products/detail.php?product_id=947)を参考にしたが、ことほど左様に、川柳では一句の正確な表記を確認するのは難しい。全日本川柳協会というところがあり、ホームページもあるがこうした点では役立たない。

考えてみると、「百句燦燦」に対しては山本健吉の「現代俳句」があり、大岡信の「折々のうた」がある。正統があって異端が生きるのではないかという平凡な事実に突き当たる。山本健吉が、新興俳句事件で微妙な立ち位置にあったと思われる作家に対して、えらく冷淡な筆遣いをすることを勘案してごく控えめにしても、正統だと信じ込んでアンソロジーを編むことのできる編者と、異端を承知しつつ好みに偏ったアンソロジーを編む編者の両様が必要だといえるのではないだろうか。

小池正博の評論文集「蕩尽の文芸―川柳と連句」に集められた評論のうち、初期に書かれた文章ではしきりに田辺聖子に対する異論を述べている。これも正統に対する異端の戦いと言えようが、相手が岸本水府の評伝に限定されているだけに広がりに欠ける。論争を挑むにしては対象が小さいと言うことだろう。異端が相手にすべき正統がそれほどいないことの証明にはなる。

シンポジウムの議論の中で、畑美樹の位置は特異だった。畑美樹の言うところでは、自分がなぜ川柳をやっているかを考えてみると、俳句や短歌はジャンルの内側に中心があり、個々の作家は中心との距離を測りながら創作活動をしているように見える。川柳には中心がない(畑美樹にとって)ので、自分は自由に振る舞える、という趣旨で発言した。裏返すと、自分のやっていることが川柳の中心だ、と言っているようにも聞こえるが、発言している当の本人は無邪気に無頓着に見える。自覚がない分、裏返ることはなさそうだ。

最後に、樋口由紀子の立ち位置は二面性を持つ。彼女は、川柳作家の帰属する旧態依然とした川柳界に向かっては、変革を呼びかける。時実新子に代表される「思い」を書く手法では、限界のあることを指摘し、川柳が言葉を使う以上、「思い」よりも言葉に注目しろと呼びかける。他方、川柳界の外側にある他の文芸ジャンルに向かっては、川柳の面白さを説く伝道師の役割をつとめる。

(彼女は当日、ウチ、ソトという言葉を使ったが、議論が錯綜する趣があった。サラ川の位置はウチなのか、ソトなのか、TVのバラエティ番組で出てくる川柳はウチなのかソトなのかとなれば当然出てくる混乱だったのだろう。振り返ってみると、樋口由紀子のウチ・ソトは、シンポジウムの結論を先取りして、文芸ジャンルに属する川柳界の内側と、そこから見た外側としての文芸他ジャンルと考えるとわかりやすかった。)

最近上梓された「川柳×薔薇」に納められた彼女の過去の文章も、大半は両面の内のどちらかを意識して戦略で書かれている。

樋口由紀子自身は明確な方法論に基づいて作品を書く作家ではない。良く言えばアド・リブのきく、悪く言えば行き当たりばったりの作家である。(「侍はパンツの中にシャツを入れ」という一句だけを取り出してみてもそんな感じはする。)そんな作家が、自己規定のない文芸の自己主張役を買って出ている。

思い返せば、川柳と俳句を峻別して川柳を伝統的な世界に閉じ込めようとしているかに見えた復本一郎氏、との論争(今日の目から見た批評としては、≫http://haiku-space-ani.blogspot.com/2008/09/blog-post_7914.html)では、一歩も引かない論戦を見せた。川柳が安易に規定されてしまうと同時に、川柳の変革が流されてしまうことへの危惧があったと想像される。手っ取り早く川柳はこんなものですと、自己規定を見せれば話は早く済むだろう(たとえば、リンクに引いた文で樋口由紀子以前の「思い」を書く手法についての解説はない、当然復本一郎などが愛でる川柳の伝統的な内容、「穿ち」とどう関わるのか、などの考察は省略されている)。

が、それをやってしまうと作家としての樋口由紀子は死んでしまっただろう。方法論を言語化すれば、無意識は殺される。(作業仮説としての有季定型などと称して、のんびり俳句初学の時期を過ごしていた私には、どっちもわかるがどちらにも首をひねるというやっかいな論争ではあった。)

樋口由紀子は、ウラハイに「金曜日の川柳」を書くようになってから、過去の伝統川柳の厚みに圧倒されるようになったと述べた。川柳を革新の道へと導いた作家の代表句を中心に取り上げる予定であったが、書く段になると志とは違う面も出てきたようだ。さきほど過去の「金曜日の川柳」を確認したところ、管見ながら、バランスはとれていると感じた。志と道を違えたわけではないが、普段は意識しない道々の松や杉も気になってきたのだろう。ある意味、川柳の自己主張を担わざるを得ない作家が、またやっかいごとを抱え込んだことになるが自己主張の道筋としては自然の成り行きかも知れない。

「これが川柳」というところがうまく填まらないと、「これも川柳」、「これでも川柳」というところがうまく機能しない。「これこそ川柳」というものだけが川柳ではないだろう。



第二部の句会で選者をつとめた、バックストローク同人で川柳結社「ふらすこてん」主宰の筒井祥文という男がいる。あちこちの川柳句会をはしごして鍛え上げた作句力を身上とし、選者ともなれば選句の読み上げがそのまま芸となるような披講をものする。(「金曜日の川柳」にも彼の句が取り上げられている。)今回の披講も見事なものであった。

彼は、「ふらすこてん」の月報に「番傘この一句」という連載を持っている。「番傘」は西田當百が産み、岸本水府が育て上げた日本最大の川柳結社で、伝統川柳(岸本水府は「本格川柳」と言っているようだが)の牙城と言っていいだろう。この結社は今いかなる川柳を生み出しているのか。それがわかるのがこの連載である。

その彼が、あるとき、とある番傘の句会で拾った句を口にした。「ご遺族と呼ばれ遺族かと思う」、耳で聞いた記憶なので細部は間違っているかも知れない。これを聞いたある俳人が、一般人の抱く川柳のイメージとは異なる川柳を書く樋口由紀子や石田柊馬などに、選者であったらこの句を取るかどうかを尋ねた。その俳人の期待した答は、取らないというものだっただろうが、尋ねられた方は異口同音に必ず取ると答えている。この逸話は、「これが川柳」から「これも川柳」、「これでも川柳」までが一連なりになっている証でもある。筒井祥文は、この句を紹介したときに、この句を必ず取る選句力が伝統川柳を担う側に残っているのかどうかを危惧していた。

シンポジウムで誰の発言だったか、もう記憶があいまいになっているが、過去の厚みある伝統川柳に習って書いても、どうしても薄っぺらなものにならざるを得ない面が出てくる。うまく行っている作家もあるが、総体としては衰退の傾向にある。こうした発言があった。それもまた事実なのだろう。



シンポジウムを聞きながらずっと考えていたのは、俳句甲子園ではなく、川柳甲子園は可能か、ということだった。川柳には、俳句の世界にあるような批評のマニュアルめいたものは発達していない。「切れ」とか「付きすぎ」と言ったテクニカルタームも存在しない。したがって、俳句甲子園にあるようなディベートとは異なった形式が求められるだろう。というような夢想を頭の中で繰り広げていた。夢想がそこから先に行かないのは、鈍行を乗り継いで、神戸から名古屋まで来た疲れのせいだろうか。




1 comments:

野口裕 さんのコメント...

樋口由紀子氏からの連絡で、

ご遺族と言われご遺族かと思う

ではないかとのこと。ご教示感謝いたします。