かまちよしろう20句を読む
不幸なことがあったときは
太田うさぎ
望郷はもう死語ですか皆の衆
読み返すその度に、脳内で床を転げ回りながら腹を抱えて笑う。「望郷はもう死語ですか」この幾分甘く、フォークソング的なノリの感慨にいきなり村田英雄。凄い。「皆の衆」に恐るべき破壊力がある。笑いすぎて涙で曇った視界の先にちょっと困った顔をして立っている作者の姿が見えてくる。
はにかんでやがて淋しき風信子
そうか、「皆の衆」の句もはにかんでいるのだ、とこの句を読んで思い至った。望郷の念を正面きって口にするのではなく、「皆の衆」と受けずには入られないのは、オフザケでもウケ狙いでもなく、含羞である。
さて、ヒヤシンスの花の色合いはまさしくこんな感じ。「風信子」も風の便りのようで儚く、春先の気温ほどの情緒を伴ったキュンとする句だ。
肩こらぬ亀の泳ぎや青葉池
句会に出されたならば、その場でやっぱり笑いを誘っただろうな。でも、亀の柔らかく水を押しのける泳ぎ方を見ていると確かに肩凝らなさそう・・・ってだから、亀のどこに肩がっ!と、自分で自分に突っ込みを入れるのもまた楽しい。青葉池の気持ち良さと相俟って、読みながら力がすぅっと抜けていく。
日盛りや紙魚より薄き影法師
これはまた情けないことである。炎天下に地に象られた影は禍々しいまでに黒くてもよさそうなのに、相当薄いです。影法師が薄い、をちょいと延ばせばその持ち主も、ということになるのだが、薄さを喩えるに紙魚なんていうどうにも瑣末なものを持って来てしまったが為に、かえって目立つことになっちゃった、逆説の愉快。
お茶碗を父と名付けりゃ割れにけり
二コマ漫画的醍醐味。そういえば、かまちよしろうさんは漫画家である。二コマ目への切れ字になっている「りゃ」がやっぱりはにかんでいる。シンプルで、且つ深遠な意味を含んでいる気配があるが、深追いはせず、「割れにけり」のアッチャー!な余韻に浸ればよいのだろう。
凍空にえくぼのありし帰宅かな
「皆の衆」といい、「影法師」といい、お茶碗といい、作者の眼差しは自分に向けられるときにかなり自嘲的な一方で、「風信子」やこの句のように外の存在に対しては限りなくあたたかい。「遠路はろばろ来た帽子」にしてもそう。凍空のえくぼ、とは星の瞬き、それとも月だろうか。大人の男性が詠むには可愛らしすぎるかもしれないが、夜空に微笑みかけられながらの帰宅なんてこれまで考えたこともなかった。読む人に小さな幸せを与える句。
大福の隣に不幸坐ってる
これは漫画でいうなら一コマのそれ。シュールな光景だけれど、漠然とでも頭の中で絵を描けるのは、一にも二にも「坐ってる」の具体性のおかげだろう。幸と不幸は隣り合わせ、というような教訓めいた話ではなく、大福と不幸が実際に同サイズで鎮座なさっている。なんだか憎めない不幸さんだ。これからは不幸なことがあったときに、「でも隣には大福が坐っている」と思うことに決めた。
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2011-10-16
かまちよしろう20句を読む 太田うさぎ
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