〔週俳10月の俳句を読む〕
途中でトーンが変わります
小川春休
日下野由季「森の日」より
鈴虫の声となりたる草の丈
鈴虫の声となる、というのは少々屈折を含んだ表現で、それを読むということは、その屈折をたどっていく、ということでもある。「鈴虫の声となりたる」とは、鈴虫の鳴く頃になったなぁという感慨に片足を、もう片足を鈴虫の声そのものに置いたような、そんな両面性を持った表現。景と作中主体の感慨とがすーっとシンクロし、どちらがどちらと判別のつかぬまで一体化したような、そんな心地良い読後感が残る。
毬栗のふちに森の日あつまりぬ
森の木々の合間を縫って差し込んでくる日差し、それが毬栗のふちに集まってきているというのだ。毬栗のイガというなら一点だが、毬栗のふちは、円である。その円に集中してくる日の光、毬栗は、光の珠のように目の前に存在している。神秘的なものを見出す、書き手の力を感じる句だ。
山口優夢「海」より
秋風の波止場に漫画・畳・服
漫画だけが流れてきたのでも、畳だけが流れてきたのでも、そんなに驚かないかもしれない。しかし、漫画と畳と服とが流れてきたとなると、少しぎょっとする。漫画と畳と服とが流れ寄せる様相とは、ある意味、生活そのものが、丸ごと流れてきたようではないか。物の存在感で構成された句には力強さがある。
でも僕が逃げても逃げなくても月夜
今回の一連の句に現れるのは、瓦礫や荒野、灯のともらぬ家、津波跡を思わせる漂着物。震災詠、ということになるのだろうか。そうした一連の中でこの一句は内容がやや抽象的な分、その色合いが薄く、普遍的な句として読むことも十分可能な句となっている。すとんと心に落ちてきて、じんわり沁みてくるのは、みんながよく知っている自由律の句と、口調が似ているからかもしれない。
さてここから少しトーンが変わります。
かまちよしろう二〇句(西原天気・謹撰)より
肩こらぬ亀の泳ぎや青葉池
古田織部風に評すれば「はにゃあ」とした佇まいの一句、堪能いたしました。俳句も仕事も、肩の凝るのはいけません。半可通が「『亀の泳ぎ』で『青葉池』は言わずもがな、ツキスギなんじゃありませんか」などと言い出しそうですが、捨て置きましょう。この句の味わいどころはなんといっても「肩こらぬ」。それ以外の部分は、至極当然なことを抜けぬけと言った方が、旨味が引き立つってもんです。
寧日や泡の少ない黒ビール
こう言われると逆に、日頃よく目にするラガービールの泡の多さが華やかに思われてきますが、泡の少ない黒ビールも、ラガービールとは違った実直さがあってまた良し。ジョッキの縁ぎりぎりまで飲み出があるのが嬉しいじゃありませんか。寧日寧日。
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2011-11-06
〔週俳10月の俳句を読む〕小川春休
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