助動詞「し」の完了の用法
大野秋田
「澤」2011年10月号より転載
最初に用語の意味を確認しておきたい。
文法の「完了」は単なる終了ではない。「完了の助動詞」は次のように定義される。「動作・作用の完了し、次にある何らかの状態が発現していることを表わす助動詞」(『日本文法大辞典』)、「事態の発生、完了、完了した状態の存続、それらの確認などの意を表わす」(『日本国語大辞典』)。
過去の助動詞「し」の完了の用法は、近現代の俳句短歌にはおびただしく見られるが、正しく認識されていない。昨年、たまたま上田信治の過去のブログ(「胃のかたち」平成19年4月8日)を見て、かつてこの「し」をめぐって論争があったことを知り、非常に興味深く思った。
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論争は以下の通り。
池田俊二が『日本語を知らない俳人たち』(平成17年)で、現代の俳人が、過去の助動詞「し」を完了の意味に使うのは誤用であるとして、多くの俳人の作品や新聞の選句をあげ、何十頁にもわたって執拗に批判した。片山由美子が『俳句』平成17年5-6月号の「現代俳句時評」(『俳句を読むということ』所収)で反論すると、池田が「し」についての知識を得た本である『旧かなを楽しむ』(平成15年)の著者萩野貞樹が『旧かなと親しむ』(平成18年)で片山説を批判した。また、『俳句界』平成19年9-10月号の「文法の散歩道」で松田ひろむが池田説を批判、同11月号で池田が反論した。
以上を図書館で全部読んだが、四人とも「し」の歴史をおさえていないため、論争は不徹底なままで終わっている。
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完了の「し」は鎌倉時代に現れ、近現代に至るまで多くの文学者が使った。その歴史を知らずに誤用正用を論じるのは無意味である。「し」は過去の助動詞「き」の連体形、「き」の活用は「せ・○・き・し・しか・○」。意味については『旺文社全訳古語辞典』から引用する。
①過去に直接経験した事実、または過去にあったと信じられる事実を回想していう意を表す。…た。…ていた。
②(平安末期以降の用法)動作が完了して、その結果が存続している意を表す。…ている。…てある。(②の用例は後に引く『為忠集』の和歌)
完了の「し」は、体言に接続して「大空に又わき出でし小鳥かな」(虚子)、連体形の終止法として「玉の如き小春日和を授かりし」(たかし)などと使う。このような用法が誤用だというのが池田、萩野の主張である。
池田と萩野は、それを主に現代の俳人歌人の習癖と見て、古い完了の用例を認めたがらないようである。
古語辞典の『為忠集』の用例を指摘されると、『金葉和歌集』中の為忠の歌の懸詞が「雅」でないとか、『為忠集』は当時の俗書だなど根拠不明のことに話をそらして逃げている。
また、芭蕉「衰(おとろひ)や歯に喰あてし海苔の砂」、子規「絲瓜咲て痰のつまりし佛かな」は明白な完了の用例だが、過去の用例と強弁し、両句に摩訶不思議な解釈を加えている。
池田も萩野も知らないようだが、完了の「し」を最初に批判したのは本居宣長である。『玉あられ』に「然るを近世人は、此差別をわきまへず、歌にも文にも…さけるとやうにいふべきところを、さきしといふたぐひのたがひ、いづれの詞にもおほし」とある。
宣長は、平安時代の美しく整った文法を尊重していたから、そこから外れた「し」を批判するのは当然だが、この言葉から、宣長の時代すでに完了の「し」が多用されていたことがわかる。
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中古(平安時代)は全く同じではないにせよ言文一致の時代であった。中世(鎌倉・室町時代)は古代語が衰滅し近代語が生まれていく過程の時代である。
例えば過去や完了の助動詞「き・けり・つ・ぬ・たり・り」は次第に衰え、江戸時代の初めには「たり」から変化した「た」(生まれたのは平安末期)一語に集約されるようになる。後世ほどの懸隔ではなくとも、言文二途が進行していった中世では、口語で考え文語で書くということが起こる。口語で完了(た。…ている。…てある)の意の「た」と意識されたものを文語にするとき、「たり」「り」が使われたのはもちろんだが「し」も使われた。
いくつかの古語辞典は「し」の完了の用例として「わが園の咲きし桜を見渡せばさながら春の錦はへけり」(『為忠集』)を引く。これを根拠に完了の用法を平安末期からとする辞典が何冊かあるが誤り。丹後守藤原為忠は平安末の人だが、『為忠集』は為忠の家集ではなく鎌倉中期某人の家集という考証(森本元子『俊成卿女の研究』)があり、中世からの用法ということになる。
なぜ、「し」が完了と思われたのか。
『日本国語大辞典』は、「し」は「古くは変化の結果の状態(口語の「…している」の意味)を表わした」として、『古事記』の歌謡「…浮きし脂…」他の用例を示す。その変化が現在以前に完成したという意味に発展したことで過去の意味が成立したのだという。本来的に完了の意味があったことが、そう思われる下地になったのではないか。
奈良時代以前の完了の用法については井島正博の論文「古典語過去助動詞の研究史概観」が詳しく、『武蔵大学人文学会雑誌』第32巻2-3号をネットで検索すれば読むことができる。 (≫html)(≫pdf)
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用例を挙げる。
正徹「古りはてし足よわ車やすらひに行きつかれぬる恋の道かな」、三条西実隆「うづもれし松竹ながら夕日影さすがわかるゝ雪の山もと」(新日本古典文学大系『中世和歌集 室町編』)
『耳底記』(『日本歌学大系』第六巻)は、戦国時代の歌学の大家細川幽斎の和歌に関する談話を烏丸光廣が筆記したもの。「山花」の題の「面影のほのかに見えて霞みしや都に近き春の山の端」という歌について、光廣が「霞みしや」は「霞めるや」がよいのではないかと質問したのに対し、幽斎は、「霞めるまさるべし。霞みしと言うても苦しからず」と答えており、「る」と「し」を同じように考えていたことがわかる。この幽斎の言葉については、『岩波講座日本語7 文法Ⅱ』に山口明穂の丁寧な解説がある。
井原西鶴『日本永代蔵』(巻二)に、「弱りし鯛の腹に針の立て所、…とがりし竹にて突くといなや生きて働く鯛の療治」。
芭蕉「かりかけしたづらのつるやさとの秋」「蜻蜒やとりつきかねし草の上」「夏の夜や崩て明し冷し物」。
近松門左衛門『曾根崎心中』に、「ゆるみし帯を引きしめ」。
上田秋成『雨月物語』の「蛇性の婬」に、「あなやと叫びて、手に据ゑし小瓶をもそこに打ちすてゝ」。
曲亭馬琴『南総里見八犬伝』(肇輯 巻之二)に、「鉢巻にせし手拭を、解つゝ汗をとるもあり」。
香川景樹の長歌に、「春雨に おくれし雨か 五月雨に さきだつ雨か」(『桂園一枝』)。
福沢諭吉『世界国尽』に、「『英吉利』は『仏蘭西国』の北の海、独り離れし嶋の国」。
『新抄 明治天皇御集 昭憲皇太后御集』(角川文庫)は、十万首といわれる明治天皇の御製から約千四百首を選抄。御製では、「さきみちし藤の花ぶさ風ふけば芝生の上になびきてぞちる」他少なくとも三十首の用例がある。
坂本龍馬の最初の伝記、坂崎紫瀾『汗血千里の駒』(第三回)に、「血刀を持ちしまゝ斃れ伏したる者は」。
音曲では、勝海舟が西郷南洲を追慕して作った薩摩琵琶の「城山」に、「亥の年以来養ひし 腕の力もためしみて」。常磐津「戻橋」に、「又むら立し雨雲の」。筑前琵琶「湖水渡り」、清元「青海波」にもあるが省略する。
『提督秋山眞之』(昭和9年)に、秋山の十四五歳ころの和歌が載っている。「夏草/此頃はゆきゝになれし旅人もまよふ夏野の深草の里」
明治20年代の新体詩、讃美歌にもあるが省略する。
樋口一葉『大つごもり』に、「堅焼に似し薄布団を伯父の肩に着せて」。『たけくらべ』に、「垢ぬけのせし三十あまりの年増、小ざつぱりとせし唐桟ぞろひに」
幸田露伴『風流仏』に、「徒に垣をからみし夕顔の」。
森鷗外『舞姫』に、「悪しき相にはあらねど、貧苦の跡を額に印せし面の老媼にて」。
森田思軒『我邦に於る漢学の現在及び将来』に、「世は光陰(タイム)といへることも含みをり、且つ全体を包みし詞なり」。
唱歌では、大和田建樹作詞、多梅稚作曲「鉄道唱歌」に、「…琵琶の海/ほとりに沿ひし米原は/北陸道の分岐線」。
小説家の俳句では、森鷗外「かど松の壕の口にも立てられし」。夏目漱石「水臭し時雨に濡れし亥の子餅」。永井荷風「蘭の葉のとがりし先や初嵐」。尾崎紅葉、泉鏡花、芥川龍之介、内田百閒、横光利一の句にもあるが省略する。
訳詩集では、『於母影』の小金井喜美子訳「ミニヨンの歌」に、「青く晴れし空より」。上田敏『海潮音』、荷風『珊瑚集』、堀口大學『月下の一群』にもあるが省略する。
近代詩では、島崎藤村「小女」に、「たわにみのりし/穂のかげを」。
高村光太郎「泥七宝」に、「つりし蚊帳のみづいろに/品川の夜のしののめ」。
萩原朔太郎「草の茎」に、「冬のさむさに、/ほそき毛をもてつつまれし、/草の茎をみよや、」。
北原白秋「糸車」に、「ひとり坐りし留守番のその媼こそさみしけれ」。
宮沢賢治「朝」に、「旱割れそめにし稲沼に、」。
三好達治「わが手いま」に、「わが皺だみし手をしばし」。
伊東静雄「山村遊行」に、「ふくれたる腹垂れしふぐり おもしろき獣のかたちも」。
中原中也「朝の歌」に、「倦んじてし ひとのこころを」。
歌謡曲では、佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲、楠木繁夫が歌った「緑の地平線」に、「ぬれし瞳にすすり泣く」。
これらは、図書館で本の頁を適当に繰って案外簡単に見つかった。丁寧に探せばいくらでも出て来るだろう。
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完了の「し」は、何百年にわたって使われ、近世以降は多くの偉大なる文学者によって使われた。誰がこの言葉の歴史を否定できるだろう。俳人や歌人は堂々と使うべきである。文句が出たら、「芭蕉西鶴近松鷗外漱石…が使ったので私も使っている」と答えればよい。完了の「し」を誤用というのは国語の伝統に対する侮辱である。
山口明穂は『日本語を考える―移りかわる言葉の機構』の中で、現在推量の助動詞「らむ」が近代短歌で未来の予測に使われている用例や、過去の助動詞「き」が『平家物語(百二十句本)』や『雨月物語』で未来の事態に使われている用例について、
「日常語を離れた文語体を書き表すときに、日常語によって発想した内容が文語体の言葉遣いに現れることになるので、本来の用法から見れば誤用という現象が起こるのもやむをえないことなのである。その意味では、誤用というよりも、むしろ、その時代のスタイルと考えるべきであろうか」
と述べている。真に文語を愛し、文語の歴史を知る人の言葉だと思った。
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池田と萩野は「し」について歌人も攻撃したのだが、俳人歌人中反論したのは片山と松田だけだった。俳人も歌人も池田萩野と同じく、「文語文法=高校の古典文法の教科書や参考書=中古の文法」だと思っているからである。
次の五首の短歌の文法上の誤用がおわかりだろうか。
空穂「鉦鳴らし信濃の国を行き行かばありしながらの母見るらむか」
赤彦「信濃路に帰り来りてうれしけれ黄に透りたる漬菜の色は」
牧水「うすべにに葉はいちはやく萌えいでて咲かむとすなり山桜花」
啄木「かにかくに渋民村は恋しかり/おもひでの山おもひでの川」
邦雄「馬を洗はばうまのたましひ冱ゆるまで人戀はばひとあやむるこころ」
これら人口に膾炙した名歌には、中古の文法を基準にするなら文法上の誤用がある。しかしそれらは中世以来の慣用であった。そしてこれらの「誤用」は現代の俳句短歌にも存在する。
「文語文法=中古の文法」だけでは説明できない文法が今も作品の中に使われており、それらは歴史のある文法であり誤用ではないことを俳人や歌人は認識すべきだと思う。
『日本文法大辞典』は「文語文法」を「文語の文法。平安中期の和文の文法を中心とし、奈良・鎌倉・室町・江戸・明治以降昭和前期、各時代の文語文の文法」と定義している。中古の文法だけが文語文法ではないのだ。
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中世以降の文法が公認されたことがある。
明治時代、普通文(「普遍通用の文」の意)という新しい文語文が生まれた。旧来の文語の美文調や形式的修辞を排し、論理性実用性を重視した文語文で、評論論説また教科書や新聞等に使われた。盛行して一時言文一致運動を頓挫させた。大正期以降は終戦まで公用文で使われた。
明治38年、文部省は「文法上許容スベキ事項」を官報に告示、普通文によく見られた文法上の破格の表現十六項の許容を発表した。
「居り」「死ぬ」は四段活用で可、「せらる」は「さる」で可、「得しむ」は「得せしむ」で可、サ行四段動詞+助動詞「し」は本来「しし」だが「せし」で可などで、現代の文法にうるさい輩が見たら目を剥くようなことが書いてある。
許容の理由は「之(=中古語の法則)ニノミ依リテ今日ノ普通文ヲ律センハ言語変遷ノ理法ヲ軽視スルノ嫌アル」ということ、また従来破格誤謬とされたものも「中古語中ニ其用例ヲ認メ得ベキモノ尠シトセズ」ということであった。しかし翌年出た調査報告を見ると中古語に用例のあるのは五項のみ、他は中世以降の用法である。
「言語変遷ノ理法」と述べているのは興味深い。文語も変遷するものと考え、文法に文語を合わせず、変遷して社会で使われる文語に文法を合わせたのである。
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完了の助動詞「たり」は「てあり」から、「り」はたとえば「咲きあり」のiaがeとなって「り」が生じたとされ、本来存続の意味が強い。
また、用例を見てわかるように完了「し」も存続の意味が強い。
中世に生まれた完了「し」が「たる」「る」に伍して使われるのは、音数(「たる」は一音多い)や接続(「る」は動詞四段サ変のみ)とともに音韻が関係している。サ行音は静かな感じがするがラ行音は明るく、ひびきも強い。句や歌の内容に合わせて、また他の部分の音韻を考慮して選択されていると思われる。
完了「し」は年功を積んだ俳人が使っている印象があるが若い俳人も大いに使う。『新撰21』では二十一名中十六名が、『超新撰21』では二十一名中十二名が使っている。
安田純生『現代短歌のことば』『現代短歌用語考』『歌ことば事情』(いずれも邑書林)、宮地伸一『歌言葉雑記』(短歌新聞社)『歌言葉考言学』(本阿弥書店)。これらは近現代短歌の文語の問題(俳句にも一部共通する)について用例を博捜、古典の用例に照らして深い考察を加えた労作である。
宮地の二冊は、歌誌「新アララギ」のホームページに「短歌雑記帳」の名で公開されている。読めば文語通になれる。完了「し」については「バックナンバー」の「2006年1月~5月」(初出は平成2年歌誌「明日香」)にある。「し」を攻撃した老歌人の逸話が面白い。完了「し」がどのように認識されていたかがよくわかる論考である。
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2 comments:
この文章を「澤」で見つけたとき、大変に爽やかな思いをしました。よい論考を転載なさった週刊俳句に敬意を表します。
この一文で気になったのは「堂々と使うべきである」だけでした。別に「べき」ではないのであって、使う限りは出来るだけ自覚的であってほしいということは思いました。文語文法や仮名遣いが変化するのかしないのか、という問題も孕んでいるんですね。で、大野さんも紹介して下さっていますが、『現代短歌用語考』(邑書林)などの著者である安田純生さん(歌人「白珠」代表・国語学者)は、「文語」と「<文語>」を分けて話されるとこが多いようです。即ち、平安末期に一度固まる変化のしようのない成熟した「文語」と、それ以降日常の使用例から言文一致が崩れ始めて変化をしだす「<文語>」というわけです。例えば「枯る」は「文語」の終止形ですが、「枯るる」だって「<文語>」の終止形としては正しい、というようなことですね。で、僕が思うのは、二十一世紀のこの時代に俳句に特化して文語(歴史仮名使いもそうだし、正字もそうなんですが)を意識的に使う限りは、それに対して意識的でありたいな、ということです。無意識に生齧りの知識で書くから池田さんのような過ちを犯すんですが、この誤り方と、先例があるから堂々と使ってよしとしてしまう使い方は、表裏一体の危うさがあるんです。特に「週刊俳句」の読者には若い、または意欲的な俳人が多いと思いますので、是非、若い人には文法についても積極的学習をしてもらいたいと思いますし、大野さんの文がそのきっかけになればいいなと思います。
例えば句会でよく見かける「捨てり」などの「り」の用法、先例があったとしても、やはり僕はいやだなぁ。許容することと正すこと、それを大野さんのように自覚的に学ぶ必要を、この大野さんの一文から感じ取りたいなと思います。
改めて、大野さんの文と、これを転載なさった週刊俳句に敬意を表します。
ごめんなさい。
僕のコメントの17行目、
それに対して意識的でありたいな
を
それに対して自覚的でありたいな
に訂正します。
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