【不定期連載】牛の歳時記 第1回
牧閉す
鈴木牛後
天気さんから、「牛のこと何か書いてもらえませんか?」というメールをもらって、少し考えた。ここに書くからには、何か俳句と関連づけて書きたいな、だけどそんな文章書けるかな、と。そう考えながらも、タイトルは「牛の歳時記」にすると、頭が勝手に決めていた。やっぱり俳句といえば歳時記。
でも牛には特別に季感というものがないから、牛に直接関係する季語はほとんどない。いくら不定期連載といっても、これではすぐにネタが尽きてしまうに違いないとも思う。それでも、牛飼いは季節とともに生きているのだから、何かしら題材は見つかるだろう、という楽観的見通しのもと書き始めることにする。
どの牛も遠目せり明日牧閉す 大畑善昭
【牧閉す】 放牧していた馬や牛を持ち主に返して牧場を閉鎖することをいう。今日では馬は少なく肉牛が主体であり、牧場も公的な組合経営が多い。(講談社日本大歳時記)
放牧場といえば、一般的には阿蘇の草千里のようなところがイメージされるであろう。阿蘇以外にも、全国津々浦々に放牧場があり、肉牛や、乳牛の育成が放牧されている。畜主は自分の労働軽減のためと、牛馬が山野を歩き回ることで、頑健になることを期待して放牧するのである。
我が家は乳牛を飼って搾乳をしている。いわゆる酪農家だ。けっこう世間では誤解があるようだが、肉牛を飼う農家を酪農家とは言わない。あくまで搾乳のために乳牛を飼う農家が酪農家なのである。そんな酪農家である我が家の特徴は、搾乳牛を放牧していることだ。2、30年前までは搾乳牛も放牧するのが当たり前だったのだが、酪農が集約産業化した現代では少数派となっている。
北海道はもうすぐ雪の季節。この原稿を書いている時点ではまだ放牧をしているが、あと数日で終牧とする予定だ。掲句は、余所に預けている牛のことを詠んだものだろう。「どの牛も遠目せり」という措辞には、多分に人間の感情が移入されているように思える。牛がどう思っているのかは、牛自身にしかわからない。いや、牛自身にもわからないと言うべきか。
我が家の牛の場合は、もう遠目などはしていない。放牧地には草が乏しくなり、雨風は冷たく、決して牛にとっても居心地の良いところではないらしい。夕方近くになれば牛舎の近くに集まり、いつ牛舎に入れてくれるのかとじっとこちらを見つめている。そして、ゲートを開ければ牛舎めがけて早足で入ってくる。次の朝はまた放牧地へ行って草を食べる。その繰り返し。
そして、とうとう終牧となった日も、牛は何の感情も表に出すことはなく、与えられた餌をもくもくと食べ、ゆっくりと反芻の時間に入るのだ。
牧閉ぢて山を下りしひづめ跡 牛後
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