「重くれ」か「軽み」か
西原天気句集『けむり』を読む
堀本 吟
mixi日記(2011年11月08日17:57)より転載
すこし重い事柄がつづいたので、すこし軽いことばを読みたくなった、それも、作為をほめなくてはならないようなものではなく…けむりのようにあわい、しかしそのあわさも消えてしまったあとに存在感がきわだつような。
以下引用句すべて西原天気句集『けむり』より。
雲が雲を離るるちから冬立つ日
この句集は、おしなべて淡いモノがたたえるある種の力にたいして敏感である。
雲と雲はたがいに高度が違うことが多いし、したがってそれぞれを形作る気流や温度の条件もちがう。餅のようにちぎれたりはしない。雲の変形の天才ぶりはどちらかといえば、ほぐれたりすれちがったりのイメージがつよいのだが、地上から見上げていると、想い粘っこい塊がむくっと二つに別れり…と見えることもあるのだ。
そう言う場面もただちに既視感が湧く。薄寒くなってきた夕空、ふちどっている光の線描。いつのまにかちがう形の輪廓が、それもしばらくくっきりと空にとどまっている。
風ぼおと海を濡らせば明石かな
西原天気は、無季俳句は作らない、というのはいつの間にか持ち込んだ偏見だった。「風が海を濡らす」という感じはなかなかつかみにくいが、「明石」が添えられると、瀬戸内海を渡るフェリー連絡船の夜の甲板をふきとおるじっとりしてきつい風を想い出す。明石大橋の橋脚を打つ波が、風のために高く強くなっている。
これらの句は決して写生的とはいえないが、読む人にリアルな既視感と像を呼び出してしまう。物象にともなう「淡い陰」「影」。その発見がユニーク。
物体に陰そなはりて毛糸玉
これは「影」ではなく「物陰」の「陰」である。「物体」は「毛糸玉」のことだろうが、「陰」は「影」ではない。「翳り」とも違う。この辺の世界の淡い部分への感受性がするどいように思われる。
貧乏にふつと林檎の香のしたり
海かくもひらたし林檎かじるとき
これもありきたりのようだが、私の好きな淡さ、アップルコンピュータの、一口囓られたあの林檎の堅さやジューシーな質感を得ながら、「かじる」ことのむづかしい海の、茫漠とした不定形を「かくもひらたし」、と捉える。とっかかりのない水の平面こそは、究極の形なのかも知れない。
「けむり」という句を捜してみたが見つからない。これ全体が読まれて、散って忘れられることを望んでいるらしい、って(ほんとかな?)、世界の現象はすでに散らばっていて他者に関係なく動いたり、光ったり吹いたりしていて、ある感受性が(貧乏ではあっても想像力で補えるような)ぶらぶら歩きの序でに、籠に入れてそれらをもって帰ってきて、机に置いた、と、このような淡さである。
それから、さすがにユーモアがある。それも上質。
ヒッピーに三色菫ほどの髭
思わず笑った。髭面の三色菫、ねえ。似てる!
空ばかり見てブースカが芋畑
これも笑った、擬音が擬人化されていてもあざとくない。貧乏暇あり。
しやつくりす満月ほどの寸法の
輝かしくも大きな音。
以上、西原天気の感覚がよくわかる俳句である。
軽みの文体をもってしまうと、重いモノの詠み方もやはりストレートには現れないのだ、との感を深くした。何が「重い」のか、と言えば、その空に浮いている「雲」や「しゃつくり」が重いのである。また、
桃しろく匙のかたちに欠落す
の匙のかたち=食べてしまった物体のかたち=欠落、が重いのである。無いものをふたたびあらわれるとき。この力もまた重い。
この句集は「重くれ」か「軽み」か。
煙嗅ぐ冬の窓なに焼きしかと 吟
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