2012-05-06

朝の爽波 14 小川春休


小川春休





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〈秋風に孤(ひと)つや妻のバスタオル〉を鑑賞した際、山田露結さんから「奥さんが風呂に入った後(それとも前?)に裸の上にバスタオル一枚でいるのかと読んでしまったw」とのご感想をいただきました。その時の私の鑑賞では、「物干しにバスタオルがただ一枚、強い秋風にはためいている」と読んでいました。ここに二つの読みの可能性が生まれた訳ですが、さて、どちらがしっくりくる読みと思われますか? 吟味熟読した結果、私の導き出した結論は、露結さんの読みの方が妥当である、というものでした。その手がかりとなったのは「妻の」という部分。物干しに干されている、家庭におけるバスタオルは、あくまで「その家」のものであり、「妻の」という言い方は普通あまりしないのではないか。「妻のバスタオル」というからにはやはり、今まさに妻が使用しているバスタオルと読むのが自然であろう、という点に思い至ったのです。

さて、第二句集『湯呑』は第Ⅰ章(昭和29年から34年)から第Ⅱ章(昭和35年から48年)へ。〈蟹歩き〉から第Ⅱ章に突入です。昭和34年4月8日、師と仰いだ高濱虚子が世を去っています。第Ⅰ章は虚子逝去の年までの作品を収め、第Ⅱ章はその翌年からの作品。収録句数は第Ⅰ章以上の超厳選、1年あたり5句ほどとなっています。

白粉花吾子は淋しい子かも知れず  『湯呑』(以下同)

この吾子、「かも知れず」との叙述から分かるように、見るからに淋しい様子だった訳ではないのであろう。ふと、それまで見せたことのない表情の吾子に、親にも踏み入れない領域の存在を感じる。親子であっても、人の淋しさを完全に共有することはできない。

星空となる菊人形直立し

爽波の句の多くに感じるのは、夾雑物の少なさ。掲句においても、菊人形の周りには、人の姿は見当たらない(昼には見物客もいたのであろうが…)。日が暮れて、日が落ちて、空が星空となっても、菊人形は真顔で直立し続けているのである。きっと、夜が明けても。

蟹歩き亡き人宛にまだ来る文

親しい人は当然、その宛先人が亡くなったことを知っている。あまり親しくもない人からの手紙であろうか。それを目にした時の遺族の、複雑な感慨が思われる。甲殻類独特の固い脚で歩く蟹の足音との響き合いが、そうした複雑な感慨に独特の実感を与えている。

風あたり窪む春着や汀にて

正月の晴着の、晴れやかな色彩。その色彩を、風が当たって少し窪ませてゆく。窪みの成す翳りが、色彩にさらに複雑さを与える。柔らかな言葉で「汀にて」と言い流す句調は、そんな色彩の移ろいに目を奪われる忘我の時間を、一句に定着させたかのようでもある。

川床に逢ひその後幾日夜が暗し

「川床」は「ゆか」と読み、涼をとるため川に突き出して作られた桟敷のこと。殊に京都貴船の川床は木々の緑の美しさで知られる。掲句では恋の舞台としての川床、その後の夜の暗さが、川床の嘘のような華やかさを際立たせる。京都と縁深い爽波ならではの句。

参考:初めてでも気軽に楽しめる川床の選び方
http://www.kyoto-okoshiyasu.com/see/kawadoko/

秋風に孤(ひと)つや妻のバスタオル

露天風呂にでも入ろうとしているのか、妻のまとったバスタオルが秋風にはためく。切れ字の「や」は一句の感興の中心を示しており、バスタオルがたった「孤つ」であり、周囲から孤絶した存在であることが強調されている。少し色気を感じさせるがどこか寂しくもある情景、年を重ねた夫婦の姿が浮かぶ。

岡持あけて丼一つ冬の蝶

季語である「冬の蝶」から読みを展開する。「凍蝶」と比べると、「冬の蝶」は冬でもまだ活動している姿を思う。時間帯は日中、風も少なく、小春日和のような穏やかな天候が「冬の蝶」が飛ぶに相応しい。そんな中、自分一人のためだけに届けられた出前の丼、有難し有難し。

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