【週俳5月の俳句を読む】
身体感覚
市川未翔
夏痩とこたへてあとは涙かな。落語『崇徳院』は商家の若旦那の恋煩いをめぐる噺で、その枕に登場するのがこの句。恋に煩う娘は、気弱な素振りを夏痩せのせいにしてただ涙するのみ。芭蕉の師でもある江戸時代の知識人、北村季吟の作といわれる。こんな程良いかろみのある句も詠んでいるのだ。
五月に始まる夏はこうして、心境と身体感覚の結びつきというものをいっそう強く感じる。夏がそれを浮かび上がらせる。温度、湿度、紫外線、開放感。夏へ向け肌で受け止めるものは移り変わり、こころにもさまざまに光を当てるようだ。
虹染みる身を海鳴りへ投げ出せり 竹岡一郎
がりがりと虹に触れては減るあたし
近ごろは空模様が一転したかと思うとあっという間に晴れわたり、虹に出会う機会も増えた。それも夏の早い時期から。虹をみつけると、なぜだか人に知らせたくなる。面識のない隣人とも、共感めいたものが生まれる気がする。目の前の海鳴りをぐっと近くに感じる、虹の大きさ、空の大きさに自分のサイズを思い知らされる、そこから自分を思わぬ方向へと向かわせる高揚感が虹にはある。見る人の背景によってその奥行きはそれぞれだろう。作者の背景を思ってみる。虹に出会ったときの強い吸引力を実感できる。
公魚のからだの線を水がゆく 佐藤文香
魚のかたちを「からだ」と表現したことがあるだろうか。途端にいのちが見えてくるようだ。水の力やのびのびとした勢い。自分がもし公魚であったなら。公魚に自分を投影しているのか。その潔さが心地よい。
初夏の瞳のまつげを取りに濡れた指 佐藤文香
寝台車夏の冷たい人の手が
「俳句に身体の部分を詠み込むのはいかにも女性の作品ではないか。」句会のあと、そんな話になったことがある。私にもそういう傾向がある。とくに末端。髪の毛先や手の先や足先。無意識に意識しているといってもいいけれども男性にはない認識だろうか。夏の季語によってとくに、この末端がクローズアップされていく様はおもしろい。
見上げては塔の存在柿若葉 沼田真知栖
うつむきがちであることを自覚し、それを塗り替えたく、意識的にものを見上げようとしているのだろうか。変わらずあるものにほっとしたい時がある。そうやって立ち止まるのは大事な瞬間である。柿若葉の季節にはなおさら、いつもあってほしいものを確認したくなるものだ。
人くさきとは比良坂の草いきれ 竹岡一郎
毎年生え変わってきた草葉は、そこでたくさんのもの、たくさんの人々を見てきた。草いきれは人の数だけあるのだろう。その場所への愛着、人への愛着が伝わる。五月の緑の匂いは人の匂い、ありのままを吸い込んでみたくなる様はまさに、この季節の身体感覚なのだと思う。
第264号
■竹岡一郎 比良坂變 153句 ≫読む
第265号
■佐藤文香 雉と花烏賊 10句 ≫読む
第266号
■沼田真知栖 存在 10句 ≫読む
●
2012-06-10
【週俳5月の俳句を読む】市川未翔
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 comments:
コメントを投稿