成分表52 ポジティブ 上田信治
「里」2010年7月号より転載
だいぶ以前、ある画家の、ナチスドイツの記憶を主題にしたという作品を見ながら思ったのだが、造形作家は何であれ、それを「美しく」または「すごい」ものとして作る以外に方法がない。
作品が美しくもすごくもなければ、それはゴミだからで、つまり視覚芸術というものは、主題がどうあれ、一〇〇%肯定的なものである。
では、言語芸術に、否定的であったり、美しくもすごくもなかったりする自由は、あるだろうか。
言語芸術一般において、時間的持続を持った作品が、部分において、ネガティブであったり、醜悪であったり、ダメだったりすることは可能だろう。
しかし俳句は、陶器と同じように部分というものを持たない表現なので、オール・オア・ナッシング、イエスノーで言えば、それ自体丸ごとイエスであるような、ポジティブな在り方しかできない。
酌婦来る灯取蟲より汚きが 高濱虚子
ごきぶりの世や王もなく臣もなく 本井 英
俳句が、不快な対象や思想を、わざわざ作品化することは珍しくない。
しかし、それが不快なものであっても、何かを作品として提示するという行為には、つねに「魅惑されよ」という命令が書き込まれている。
酌婦来る灯取蟲より汚きが 高濱虚子
ごきぶりの世や王もなく臣もなく 本井 英
俳句が、不快な対象や思想を、わざわざ作品化することは珍しくない。
しかし、それが不快なものであっても、何かを作品として提示するという行為には、つねに「魅惑されよ」という命令が書き込まれている。
もちろん命令に従うかどうかは、受け手の自由であって、読者が、命令を含めて一句を肯うことによって、作品は成立するのだから、内容の快不快に関わらず、作品という形式自体は、まったくポジティブなものに基盤を置いている。
合意の形成に失敗したそれが、作品以前としてしりぞけられるのは、形式の防衛機制のようなものだ。
俳句の、出自における座興としての性格は、俳句らしいか否かのレベルにおいて合意を形成し、主客を入れ替えながらイエス、イエスとうなづきあう態度に残されている。それを、俳句の挨拶性だと考える人もいるだろう。
しかし、何が俳句かというジャンルの審級を越えて、一句を前にただ深々とした肯定感が起こりそれに包まれる、といった受容の仕方もある。
受容者が、作品の肯定性を確認することは、作品からの「ハロー」や「ヤッホー」を、受けとめることだとも言える。それは、作品と受容者がともに何を価値とするかについての目くばせであり、いってしまえば、同じ部族に属するものであるかどうかの、確かめ合いである。
つまり、表現行為の肯定性自体が挨拶なのであって、それは俳句に特有の現象ではないのかもしれない。
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2 comments:
作品には「魅惑されよ」という命令が書き込まれている。これは俳句に限らず芸術の本質をついた言葉と思う。もっと言えば芸術の原理を表している。
作者の心に魅惑された何かがあって、それを表したのが作品。それを読んで魅惑されてくれれば、それはいい作品とし鑑賞されたことになる。
作品の感触は、一般には結社が同じなら似ていると感じる。これは結社ごとに魅惑する要素の範囲が大体決まっているためと考えられる。
たとえば、侘び、寂び、滑稽の要素を含む句が評価されれば、作者も読者もその方向に定着する。
コメントありがとうございます。
結社が特定の価値基準を持ち、その内部で探究が行われるのは一つの理想なのでしょうが、そのことは、サークル内でぐるぐる回すことに終始する、プレゼント交換のような表現を産みがちです。
むしろ、自分は、動物や風景との出し抜けの出会いのような場面での、アイコンタクトのような挨拶ついて、考えています。
うえだ
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