俳句の自然 子規への遡行05
橋本 直
初出『若竹』2011年6月号
(但し加筆・改稿がある)
≫承前 01 02 03 04(但し加筆・改稿がある)
明治二三年四月一日から七月三一日まで、上野公園で第三回内国勧業博覧会が開かれた。この博覧会はあくまで産業振興を目的としていて、太平洋戦争後の様々に催された国際博覧会の類のような大衆娯楽性はあまり考えられていなかったようである。しかし、好奇心の強い子規は、その開業初日の午後に友人と七銭の入場料を支払って見に出かけている(「四月一日」「筆まかせ第三編」参照)。当時を代表する写真家であった小川一真〔編註≫Wikipedia〕の大写真を高く評価したり、蒸気機械の運転を見たのは良かったようだが、初日と言うことで完成していない「パビリオン」もあり、あまり感激した様子はない。この記事はそれよりもこの日の午前中に行った美術展で見た北斎の西瓜図の迫真性についての、洋画を引き合いに出しての感想のほうが興味深いが、これについてはいずれ取り上げることもあるだろう。
さて、本稿で触れたいのは、この大規模な催しに便乗して同年五月に上野と浅草にあいついで開業した「パノラマ館」のことである。これは一種の見せ物小屋で、上野と浅草で規模は異なるが、直径二、三〇メートルの円筒形の建物の内部に、一続きの画が緻密に描かれており、立体模型や照明の効果も施されていて、中央の見物台から眺めると三六〇度ぐるっと実際の風景を眺めているように見えるしかけになっていた。開業時は、上野では戊辰戦争、浅草では輸入した南北戦争の画を展示しており、観客に飽きられないように定期的に内容を変えながら、後年活動写真(映画)にとって変わられるまで営業されていたという。
子規がいつパノラマ館に行ったかはいまのところ詳らかではないが、後年に肋骨の句「砂道や片側松の秋の海」の評をするにあたって、景の中で作者が中心点であることを「パノラマの如し」と述べているから(「俳句新派の傾向」明治三二年)、この見せ物小屋の構造をよくわかって書いていることが分かるし、それで読者に通じるほどポピュラーなものであったこともわかる。
ところで、この「パノラマ」は、いわば最初から風景を風景として外部の一点から眺めるためにつくられたバーチャルリアリティ装置であり、言い換えれば、見る主体と見られる客体をはっきり分離する働きを内包するものである。逆に言えば、ここで言う風景はその内部にいて分離されていない者には、風景として認識されないという認識をもたらす可能性もあるものだと言えよう。
「パノラマ館」はあくまで模造の景色をみせる都市の中の小さな娯楽装置だが、同時代に整備されつつあった鉄道網は、自分の生活圏を越えて長距離移動をすることで自動的に身を風景の内部から切り離す役割を果たし、さらに車窓というフレームを通してパノラマ的に連続して展開する風景を乗客にもたらすという意味で、先のパノラマ館の仕組みによく似た装置ともいえる。そこに見せ物のように歴史的戦闘場面は展開されてはいないものの、そののっぺりと展開してゆく景色の規模は、パノラマ館の比較にはならない長大な「パノラマ」風景である。そう考えると、全通した東海道線は、視野におさまる世界をパノラマ化し、その車窓から見える風景を乗客と切り離す装置でもあるだろう。
つまり東海道線は単なる移動手段ではなく、近代の認識装置そのものでもあったということができる。記号としては先験的な概念である広重の五十三次の版画の風景や、十返舎一九の膝栗毛の風情などを引き寄せる一方で、近世までの異郷をすべて単線(日本)に繋ぐという働きをもち、かつ知覚への働きかけとしてはリアルな風景と既存の概念を切り離し、同時にそれを見ている一視点(個人)をそれ以外(風景)から疎外する働きをもつこともできる。その結果、一個人の意識無意識には無関係に、内面を仮構・表出させる装置としての働きをもっていたことにもなるだろう。そこから後代ステレオタイプ化する旅情の誕生までは一本道である。
やや結果論的な物言いになるが、明治二十二年以来何度も汽車で帰省していた子規自身が、この風景の内部とはほぼ交通をもつことのない移動運動を延々続けることで得る可能性のあったことは少なくないと思う。かつて柄谷行人が述べた「風景」や「内面」の発見につながる、近代日本における新しい状況が到来しており、子規はその過渡期のただ中にいたのである。そう思えば、以前紹介した明治二十四年に最初に子規が「汽車」を詠み込んだ句
汽車路や百里余りを稲の花
が、まさに「パノラマ」としてひたすら連続する水田の風景を見出しつつ、その長さを漢籍的修辞「百里余り」でしか表現できていないことは、とても示唆的なことであったかもしれない。風景を風景として成立させる自然への目の向け方は、このころすでに国木田独歩のいくつかの仕事が指摘されているが、明治二十三、四年ころの子規がやれていたのは、作句と戯作調の紀行「しやくられの記」を書くことや、「風光百変村又村」「一明一闇幾昼夜」などと、車窓からの風景を型どおりに描写する漢詩を書くことくらいであり、つまりは文字通りの日本の古典における仮名と真名の担った文化の諸概念を引き寄せずにはいられない行為でしかなかった。まだ他をよく知らなかったと言っても良い。
今回、「パノラマ」と車窓からの視点を軸にして、いわゆるリアリズムの土台になりうる文明がこの時期の日本にもたらされていることと、子規がそれを経験はしていたこと、その頃の子規の表現はまだ近世的であることを確認した。
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