俳枕16
信濃と上田五千石
広渡 敬雄
「青垣」22号より転載
信濃は、長野県の旧国名で、古事記に記された科野国が由来。県歌としては唯一人口に膾炙される「信濃の国」に、「信濃の国は十州に境連ぬる国にして聳ゆる山はいや高く流るる川はいや遠し松本伊那佐久善光寺四つの平(たいら)は肥沃の地海こそなけれ物さわに万(よろ)ず足らわぬ事ぞなき」に歌い尽くされている。
青胡桃しなのの空のかたさかな 上田五千石
雪渓や信濃の山河夜に沈み 水原秋櫻子
紫陽花に秋冷いたる信濃かな 杉田久女
胡桃ふればかすかに応ふ信濃の音 能村登四郎
みすずかる信濃ぞ燃ゆる紅葉どき 林 翔
初蛍信濃は夜もあをあをと 伊藤伊那男
≫青胡桃(画像)
上田五千石の句は、第一句集『田園』収録句で、戦火を避け昭和十九年、国民学校五年の十一歳の折、東京・代々木から長野県上伊那郡小野村(現辰野町)に縁故疎開し、三年近く暮らした体験が背景にある。
都会っ子の五千石には、環境の急激なぶれにより精神的、肉体的負担は大きかったが、農業にも従事し強く鍛えられ、季語の実習をしたと述懐する。
同句集には、〈桑の実や擦り傷絶えぬ膝小僧〉句もある。
長女日差子(ランブル主宰)は、「信州小野村こそ父の原風景」と述べている。
中村真一郎は「小さな胡桃の中に、巨大で透明な凍りついたような信州の空が映り、絶唱と言える」と評する。
昭和五十三年には当地を再訪し、「少年の日の疎開地小野」の前書きで〈すぐりの実青きを噛めば行方透く〉他二句を詠んでおり、平成四年には当地のしだれ栗森林公園内に青い御影石の「青胡桃」句碑が建立された。
疎開地小野は、五千石の若き精神形成と自然への畏敬、さらに「季を肉体に憶えさせなければ良い俳人にはなれない」(俳句塾)との確信の基になった地とも言えるだろう。
五千石は、昭和八年東京生まれ、本名明男。父晋敬(伝八・俳号古笠。内藤鳴雪門)は法相宗の東京出張所長を務めた。その五十九歳の時の子として、若くから父との遠からざる死別意識、戦禍による自宅の焼失による無常観が形成された。
疎開後、静岡県富士市に転居し、旧制県立富士中学時代に〈青嵐渡るや加嶋五千石〉を同校文芸誌「若鮎」に発表。
江戸時代初期に、富士川の洪水を防ぐ「かりがね堤」にて生まれた美田「加嶋五千石」に因み、俳号は父が命名した。
上智大学文学部新聞学科入学後過度の神経症に悩み、母の勧めで参加した句会で秋元不死男に出会い即師事し、子午線、関東学生俳句連盟等で有馬朗人、古舘曹人、深見けん二、岡田日郎、寺山修司等と研鑽、同三十一年「氷海」同人。堀井春一郎、鷹羽狩行と「氷海新人会」を結成し巻頭を競った。
草間時彦は不死男門の双璧として、知と近代性の狩行と情と俳諧性(反近代性)の五千石と評した。同三十二年俳句一芸に徹するため、就職を断念し、家業を継いだ。
同四十三年(三十五歳)で不死男の「後事を託するに足る新人」の序の第一句集「田園」を上梓。翌年同句集で第八回俳人協会賞、第八回静岡県文化奨励賞を受賞した。
宗田安正は、『田園』『誕生』(狩行)『われに五月を』(寺山修司)を、近代俳句の三大青春句集と称える。
同四十八年「畦」を創刊。師や母の死後の同五十三年に俳句専業となり、第二句集「森林」では、「天与のごとくはからざる句が降りてくる無意識の世界と技巧から脱出し、自由なポエジーを得た」と、同五十七年第三句集「風景」では「俳諧の戯れの境地に入りつつある」と述懐する。
同五十九年「畦」百五十号で「眼前直覚(いま、ここわれ、をうたう)」を提唱。平成四年に第四句集「琥珀」、文集「俳句塾」を上梓。同五年富士市の岩本山公園に「渡り鳥みるみるわれの小さくなり」他三句の「田園」文学碑を建立した。
「遠ざかる渡り鳥から逆に自分がみるみる小さくなり、渡り鳥からつき放たれたような一種のめまいのようなショックを受けた」との自句自解がある。
同九年九月二日、かい離性動脈瘤で享年六十三歳で急逝。
同年「畦」は十二月号で終刊し、翌年遺句集『天路』が出された。「眼前直覚」以外にも「俳句は野生とエレガンス(優雅)の合成物」、加えてそれより派生する「男の美学」を旨とした。
山本健吉は「世界中のあらゆる宗教や民俗神話をもすべて溶かし込む、無意識の奥に潜むアニミズムと言ってよい宗教の原型を五千石も心に願っている」と評する。
告げざる愛雪嶺はまた雪かさね
万緑や死は一弾を以て足る
あけぼのや泰山木は蠟の花
父といふしづけさにゐて胡桃割る
秋の蛇去れり一行詩のごとく
山開きたる雲中にこころざす
竹の声晶々と寒明くるべし
暮れ際に桃の色出す桃の花
冬の菊暮色に流れあるごとし
これ以上澄みなば水の傷つかむ
早蕨や若狭を出でぬ仏たち
あたたかき雪がふるふる兎の目
貝の名に鳥やさくらや光悦忌
色鳥や淋しからねど昼の酒
初蝶を見し目に何も加へざる
秋風や亡びしものに名の誉
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