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涸るる水さらに三筋に岐れ落つ 爽波はじめて知った爽波俳句がこの作品である。「がきの会」という「青」の新人会に誘われて、そこが島田牙城さんがこの句を口にした。言葉のリズムに力強さを感じた。いま思えばこの句は爽波俳句のなかでも特異な部類に属している。『骰子』以降の作品は、人間に関する興味から生まれた俳句がほとんどである。僕はそういう爽波俳句をひそかにヒューマンインタレストの俳句と呼んでいる。それに対して、この「涸るる水」の句は自然の、それもそれほど大きくない景を描いて全体を予感させるようなつくりである。物語がなく、登場人物がなく、連想がない。それがなんとなく面白い。…(田中裕明「洒脱な人」波多野爽波全集月報1〔第二巻〕)
今回鑑賞した〈涸るる水さらに三筋に岐れ落つ〉にまつわる田中裕明さんの文章を紹介させていただきました。
さて、第二句集『湯呑』は第Ⅲ章(昭和49年から51年)から第Ⅳ章(昭和52年から54年)へ。今回鑑賞した句は51年から52年にかけての秋冬の句。52年1月には、「青」の大学生会員らと湖西高島へ一泊吟行。そう考えると、〈雪敷いて蘆も疎らの中に舟〉など琵琶湖のほとりの景として読むのが似つかわしいように思えます。
縄の玉ごろと地にある柚子の家 『湯呑』(以下同)
縄の玉とは、毛糸玉のように、球状にぐるぐる巻きにされた状態のもの。これから何かを吊したりするのだろうが、今はまだ土の上に放置されている。木に実った柚子の明るい黄とごつごつした果皮と相俟って、生活の武骨な手触りを感じさせる句となっている。
穭田の水漬きて神に近くあり
稲刈後の切り株から再び萌え出た稲を穭(ひつじ)という。その年の田での作業は全て終わって、穭のささやかな緑と田の面を覆う雨水が、安らかな表情を見せている。「神に近く」とは、神社に近いのか、それとも何か謂れのある土地か。いずれにせよ、静寂を感じさせる。
涸るる水さらに三筋に岐れ落つ
冬は降水量の少ない季節。川や滝も細くなり、時には止まってしまうこともある。掲句は滝というほどではないのかも知れないが、ある程度の高低差を落ちている。細くなった水の流れが、落ちゆくときにさらに三筋に分岐して一層細く。繊細ながら凛とした句。
あかあかと屏風の裾の忘れもの
一体この忘れ物は何だろう。鞄や紙袋のようなものか、それともマフラーやコートのようなものか。ただ、屏風の裾という目立たぬ場所にありながら、灯火を受けて明るい色彩を放っている。一見正体が分からなかったのも、それが明るすぎたせいかも知れない。
ここで第Ⅲ章終了。次の句から第Ⅳ章へ入ります。
石に反る厠草履や初比叡
平たい沓脱石の上に、厠草履が乗っかっている。その反りは、これまで厠草履が使われてきた月日の長さを思わせ、その先に、厠草履を使ってきた人々の来し方をも窺わせる。初比叡という大きな季語に対しても揺るがない確かさと奥行きが、この反った厠草履にはある。
雪敷いて蘆も疎らの中に舟
同じ雪でも「積もる」と「敷く」とではその質感も異なる。「敷く」には、べったりとした雪の重さ、圧力を感じる。或いは枯れ、或いは雪に倒され疎らな蘆に、隠れていた舟が露わになっている様子は、蕭条たるものがある。流れるような助詞の連なりが見事な句。
鯉生簀雪に乾きて柿の枝
これは観賞用の鯉を育てる生簀だろうか。雪が降った後に天候が回復すると、雪が積もった箇所以外はからっと乾いているのを目にするが、「雪に乾きて」はその様子の描写として非常に的確。生簀の湛える水と、積もった雪と、乾いた枝とがそれぞれによく見える句。
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