2012-07-08

【週俳6月の俳句を読む】現象、従順、閾 佐藤りえ

【週俳6月の俳句を読む】
現象、従順、閾

佐藤りえ


自転車も網戸も浚ひ出されけり  佐川盟子

今や水辺という水辺に廃棄物はつきものというか、あらゆるものがうち捨てられている状況で、自転車や網戸が出てきたぐらいでは驚かない。「そんなものが出てきたのか!」という驚きを与えるのが句の本懐ではないだろう。では、本懐は何なのだろう?と考え込んでしまう。「ささやかな日常が泥濘にまみれてしまったことへの嘆き」?

たとえばこれを、震災の状況下のものとして読んでみると、そういう心境をあてはめることもできる。しかし、果たして、そういう読みでいいのだろうか? 前後の句の脈絡を見て、そのように推察することは私にはできなかった。また、そういう「当てはめ」はしたくない。澱みのなかから数珠つなぎで自転車と網戸が出てきた。そこで過不足なく読みを終わらせたい。


幽霊はときをり淡くなりにけり  藤田哲史

ときおり淡くなるのだから、濃厚なときもあるのである。自分、幽霊を見たことはないが、そういうものなのかな、と押しつけがましくなく説得されてしまった。

この句からはクリップボード片手に濃淡を見てとっているような、またはうす暗がりで両手を垂らして、ぼんやりと幽霊の明滅を眺めているような、そんな気配を得る。

「科学は裏切らない」という言辞がある(余談だが「…は裏切らない」「…の力を信じる」という言辞が嫌いである。そもそも裏切るとか裏切らないとかいう問題ではない)が、ここで「幽霊」はひとつの現象として認められ、眺められているのだ。幽霊の成仏が云々とか、その怨念の深さがどうとか、怖い、お寂しいとかいう言及ではない。


炒めると夏の野菜の透きとほる  北川あい沙

夏野菜は色合いの濃い、ビタミン類の含有量が多いもの、といった印象が強い。全期間的に手に入る(とはいっても品種改良や技術革新によりさまざまな野菜が季節を問わず手に入りやすくなっている状況にあるのだが)野菜よりもなにやら性格の強いものなのか、という印象もある。それらに、火がとおってしまうのである。やっつけられてしまうのである。初句の無防備さのせいだろうか、調理中のハイな状態、野菜を「やっつけてやった」感が読後ににじむ。性格の強いものたちが、従順になってしまったかのように。


ビニールの水も金魚もやわらかし  神野紗希

金魚すくいの帰り道。金魚の反応をみたり、愛でる気持ちからついつい巾着状のビニル袋を揉んでしまったりする、記憶のなかにある「あの感じ」が刺激される。揉んで確かめられるのは水の感触だけなのに、触れていない金魚も柔らかい、とすでにわかっている。この「わかっている」感が少々残酷で、なにか哀しい。そも、金魚が水と同じ柔軟さであるわけではない。存在が「やわらかく、たよりない」のだ。感触と存在感がさりげなく混同されている。そのことに認識の閾がゆらぎ、くらくらする。


浴衣着てどの町からもはるかなり  平山雄一

たよりない服装というのがある。たとえば水着とか(水着を「服装」といっていいのかどうかはここでは置く)。身体を被う面積の多少でなく、属性の問題なんじゃないかと思う。それを着ていることで「なに属性」であると表明できるか否か。そう考えて、浴衣はかなりたよりない服装かもしれない、と思う。

祭りや夜涼みといったハレを想定せず、なににも依らず浴衣を身につけてそぞろ歩いたとすれば、どこへ帰ればよいのか。また、たとえばそうした賑やかさを離れたあと、ふと、どうしたらいいのかわからないような心細さや、むやみな自由さにおそわれたりはしないだろうか。そんな時どの町も遠いな、と思うものなのかもしれない。



第267号
佐川盟子 Tシャツ 10句 ≫読む
藤田哲史 緑/R 10句 ≫読む
第268号
北川あい沙 うつ伏せ 10句 ≫読む
第269号
神野紗希 忘れろ 10句 ≫読む
第270号
平山雄一 火事の匂ひ 10句 ≫読む

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