2012-08-19

朝の爽波 29 小川春休


小川春休






29


今回鑑賞した〈川舟へ〉と〈爽やかに〉の間に、句集では〈大いなる秋の簾も風のまま〉という句が収録されています。のびやかな詠みぶりの気分の良い句ではありますが、どこか、これまでの句とちょっと方向性が違うというか…。個人的には、こういう句は爽波ならずとも、という印象が拭い切れません。これからまた作風が変わっていく時期なのかも知れませんね。『湯呑』自体、前半と後半とでかなり作風が変わってますし。

さて、今回は第二句集『湯呑』の第Ⅳ章(昭和52年から54年)から。今回鑑賞した句は53年の夏から冬にかけての句。8月、極暑の吉野へ、がきの会稽古会の指導に赴いています。〈香奠の額を飼屋へ聞きにくる〉はその折の句。9月には日光小来川での東京句会鍛錬会に参加。こんな遠方の鍛錬会に参加できるようになったのも前年に銀行員生活から解放されたおかげでしょう。それまでは、遠出と言っても近畿圏内がほとんどでしたから…。そして10月には京都にて「青」25周年記念大会、感慨深いですね。

香奠の額を飼屋へ聞きにくる  『湯呑』(以下同)

飼屋は蚕を飼うための小屋。成熟した蚕は休眠と脱皮をくり返し上蔟し始める。上蔟の前後は蚕盛りと言い、農家は息継ぐ暇もないくらい忙しい。熟練者を中心に、飼屋の方に人手を取られて、母屋には香典の額などのしきたりの分かる者がいなかったのだろう。

川舟へ臭木花咲く坂よけれ

川岸に繋いである舟。川はそう広くなく、川岸はすぐに坂となっている。臭木は山野に自生し、白い花弁と赤い萼の対比が美しい花を咲かせる。坂に生えて枝を拡げた臭木の花は、舟の繋がれた岸へ覆い被さるよう。上五の助詞「へ」が有機的に景を結びつけている。

爽やかに潮迅く花高きなり

季語としての「爽やか」は秋の清々しさを指す。形容動詞・形容詞・形容詞の連続が一句を構築しており、その響きも勢いを感じさせる。引くとも満ちるとも書かれていないが、満ちてくる潮を思う。花の方は、木槿や夾竹桃のような高く成長する花が似つかわしい。

月の出の根釣の一人帰るなり


秋、魚が寄る岩礁や海藻の密集地などの「根」を狙って、岩頭・岸壁などから釣るのが根釣。餌となる小魚が豊富なため、大物が寄って来ていることもままある。掲句では、一人だけ先に引き上げているが、他の釣人はまだ満足の行く釣果を得られていなかったか。

末枯をきて寿司だねの光りもの

晩秋、草木の先から色づき枯れ始めた末枯れの野を来た目には、この寿司はどのように映っただろう。美味しそうか、冷え冷えと感じるか。この光は明るく映るか、寒々しく映るか。一句はそうした解説に繋がる一切を述べず、ごろんとその存在感を提示している。

お十夜の柿みな尖る盆の上

主として浄土宗の寺院で、旧暦10月5日から行われる十日十夜の念仏法要。京都の真如堂で始められたと言われる。柿は形状から恐らく筆柿、長期間の法要ならではの、合間の休息の様子が思われる。盆に盛られた柿の数からすると、参加者も多かったのだろうか。

太幹は太き枝出す玉子酒

玉子酒は酒に卵と砂糖を加えて火にかけ酒精分を飛ばしたもの。その働きから、窓外の木の景と読める。この木は動いている訳ではないが、描写の力によって、木が育つのに要したエネルギーを一瞬に凝縮して現前させているように感じる。この玉子酒も精が付きそうな。

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