成分表53 微笑み
上田信治
「里」2010年8月号より転載
口にした人を微笑ませる、魔法の言葉がある。
本人の自覚としてはそこまで嬉しがってはいないはずなのに、顔中の筋肉が勝手に動いて笑いのポジションをとるのだ。
自分にとって「おっぱい」とか「(女性の)胸」などが、その言葉に当たる。なので、いちおう「おっぱい」で話を進めますがが、みなさんは、何か好みの言葉に置き換えて、読んでください。
情報技術の発達により、私たちは、居ながらにして多くの「おっぱい」を見ることができる。また、見られる見られないに関わらず、この世には、たくさんの素晴らしい「おっぱい」がある。そのことを思うと、この世がほんとうに豊かな場所なのだという考えが胸に迫り、心が満たされる。
世界が豊かだということは、たぶん本当のことだけれど、豊かなのは「おっぱい」でいっぱいの自分の心のほうだとも言える。
じっさい、その豊かさが胸に迫るのは、情報技術の「おっぱい」を見ている時ではなく、それを言葉で思う時である。
そのとき記憶はひとつの現在として立ちあらわれるのだが、それは個々の「おっぱい」の視覚や触覚の逐次の再イメージ化ではなく、言葉を合図として「おっぱい」についてのすべての記憶が、ひとまとまりに感情化して心身を満たすというような事態が起こっている。もちろん、その時、口元は果てしなく弛んでいる。
良いものの名を言って、パブロフの犬によだれを流させることは、言語あるいは言語芸術の、ポルノグラフィー的な効能の一つである。
俳句には(そのような効能とはまた別に)、言葉のラベリングの届かない混沌としたヒトの記憶の総体から、一つの場面を差し貫ぬくような働きがあって、また自分を微笑ませる。
それは、顔の筋肉が笑うまでにはいたらなくても、頭が微笑むとでも言えそうな、くすぐったいような言語的経験である。
風知草二つに割りて水そそぐ 田川飛旅子
ところで自分は、作句中、ノートを片手に顔だけ思いっきり笑っていて、気持ち悪がられることがある。それは顔から入って逆算して、わけもわからず微笑んでしまうようなものが書けないかと試みているのだ。
リバースエンジニアリングという言葉が浮かんだけれど、あっているかどうか分からない。
●
0 comments:
コメントを投稿