真説温泉あんま芸者
第9回 俳句のなかの「私」
西原天気
1. 憑依とトランス
「統一感がまるでない」。ある日、石原ユキオ氏は友人から、自分の書いた20句ほどについてそう評されたそうです。
≫憑依俳句宣言:guca 2012年8月16日
作中主体が少年であったり、女子高校生であったり、ホステスであったりする。あえて作中主体を統一しようという意識はなかったのである。俳句における「私」に関して、上の2つの引用はそれぞれ別の層の問題でしょう。前者は、ここにあるように《作中主体》、後者は《文体》。互いに無関係ではないものの(とりわけ石原氏の場合、作中主体が文体(口調)を規定するという意味で)、とりあえずは分けて考えます。
前述の友人によると、わたしの俳句の統一感のなさは、文法にも及んでいるのだそうだ。「や・かな・けり」を駆使して文語で書いていたかと思えば、「してる」「ですか」と口語的な表現を使っていることもある。/しかしこれもわたしにとっては自然なことなのだ。普段話すときはアニメキャラの口真似からビジネス敬語まで、様々な言葉を使っている。俳句だっていろんな言葉で書いてもいいではないか。
まずは《作中主体》。「主体」というと、「俳句のなかにいるその人」を示すと同時に、「俳句のなかにいるその人としてその句を書いている人」(ややこしいなあ、もう)といった入れ子めいた意味がほんわかと響いたりするので、ここでは前者の意味に限定して《作中行為者》という語で、話を進めさせてください。
で、これは生身の作者の社会属性と強く関連する。(ユキオという俳号からいまだに彼女を男性と思っている読者がいるかもしれないので念の為に言っておくと)女性である石原氏が句のなかで女子高校生っぽくあり、また別の句でホステスっぽくあることまで許容されても、少年となると、やや無理が出る(読者マターとして)。
「いや、ユキオさんの句のなかのユキオさんが少年であっても、いっこうにかまわないけど?」という人は、私が妊婦という役どころで、私の句のなかで行為した場合を考えてみればいい。「オッサンの想像妊娠かよ」と罵声が飛ぶ。これらは、無記名の句会の話ではなく、作者名が正式に明かされたのちの話です(例えば句誌・句集での発表)。
俳句においては、男女、年齢、あるいはさらに職業等といった社会的属性が、ふわっとであれかっちりとであれ一種のパラテクストとして同時に読み込まれるのが通常のパターン、俳句世間の現実と見てよい。《作中行為者》が読者の類推の範囲内にほぼ収まっているというのが、作者が最低限なすべき信用保証であり、作句上の「マナー」とされているようなのです(このあたりは、上田信治「フェイク俳句について」〔*1〕とも関連する)。さすがに私は、子を産む喜びを句にはしない。
そんななか、石原ユキオ氏は、複数の《作中行為者》(この場合は広義の《作中主体》でも齟齬が出ない)をみずからの句作のなかで生かす方途として「憑依」を発案し、提示し、宣言するのです。
わたしのなかにいつも別々の誰かが入ってきて筆を握っているのだ。/わたしは、憑依されている。/ならば、だ。一句ごとに別々の人物に憑依されるのではなく、二十句なら二十句分、同じ人物に憑き続けてもらえば、統一感のある作品が完成することになるのではないか。複数の社会的属性(あるいは複数の文学的属性)を引き受けるに「憑依」という手法を援用する。なるほど、です。ですが、いくつかの検討事項が持ち上がります。
ひとつは、俳句一般、一人の作家の句群が一定のアイデンティに貫かれているとすれば、それは《作中行為者》のアイデンティティがその理由なのか? そうではないのではないか、という疑念です。
だって、ほら、
煙突となりて雁聴くさびしさよ 眞鍋呉夫〔*2〕
俳人は煙突になっちゃたりもする。
もちろん、この例は「憑依俳句」への反論にはなっていません。煙突になる眞鍋呉夫は眞鍋呉夫であって、テクスト内での私=煙突、パラテクストの私=眞鍋、この2つのうち、前者は自在に複数化する《私》ではあっても、パラテクストで同一性(単一性)は保たれている。ところが、石原氏は、パラテクストとして複数の属性を引き受けよう、パラテクストとして《私》とを複数化しようというのですから(しかも石原ユキオという単一の署名の下で)。
(話がややこしくなっていますが、どうせ、こんな話、読んでいる人は一人か二人なので、勝手にやらしてもらいます)
俳人は煙突にだってなる。句のためなら。
この手法、別にめずらしくもなく一般的なこの手法は、いわば「トランス」です。憑依とトランスは、傍からの見た目では似ていることがあるのですが、運動としては対照的・逆の運動です。憑依は「やってくる」、トランスは「行く」。別の《私》がやってくるのと、別の《私》へと出かけるのとでは、やはり大きく違う。ちなみに世界中に巫女文化がありますが、憑依系とトランス系にきっちり分かれるようです。
〔*1〕上田信治「フェイク俳句について」
小説のようなジャンルにおける「作者と切り離された話者」とか「信用できない話者」と同じではない。俳句の場合、短すぎて、作品内部に話者の地位を確定する「フレーム」(「私の名はイシュマエル」とか、「手記:」とか)を書きこむことが難しいから。結果、話者の地位の不確定は、作者の信用問題に発展する。この論考、ロラン・バルトのくだりを飛ばして読むのがわかりやすいと思います。いま読んでみると、今回の「俳句のなかの《私》」というテーマと存外深く関わり、示唆深い内容です。全文必読。
〔*2〕外山一機 眞鍋呉夫の「戦後」 詩客 俳句時評 第62回
2. 雲散霧消する《私》
さて、石原ユキオ氏による憑依俳句として5句が例示されています。
柏餅じやうずに剥いたはうが攻め 腐女子
メーデーになんの予定もない予定 _(:3 )∠ )_ 事務員
ダンゴムシ用筆箱のあるらしき 家庭教師
あらゆるかたちを四角くたたんであげる ショップ店員
ひとを吊るほそきちからや星冴ゆる S嬢
このうち1句目、2句目、4句目、そして読みようによっては5句目に《作中行為者》として《私》が登場します。5句のうち3.5句というのは、かなり高い割合です。俳句には《作中行為者》が存在しない句も数多い。
多くの句には、対象を見ている作者としての《私》しか、《私》の影は見いだせない。上に引いた5句でいうと、3句目。石原氏は、ここにも「家庭教師」目線という設定を持ち込むわけですが、通常、ここには憑依もトランスもなく、《私》は目、目線、視点として存在するだけでいいわけです。
ただ、この場合(というのは多くの句がごく一般的に採用する作り方の場合)にも、トランスという手法が関わってきたりします。
鳥帰るところどころに寺の塔 森澄雄
鳥の視点。
梅園を歩けば女中欲しきかな 野口る理
梅雨寒し忍者は二時に眠くなる 同
トンネルや渡り漁夫らの騒がしく 同
敵国の形してゐるオムレツよ 同
藩主の娘(お姫様)=為政者の視座(≫参考)。
ほんの一例ですが(ふさわしい例かどうか心許ないところはありますが)、どうも、俳句では、視線・視点・視座に《私》が一貫しているわけではなさそうなのです。
考えてみれば、俳句は業務報告でも現地レポートでもない。作者が、社会的属性・生物的属性に縛られる必要はありません。さらにいえば、俳人の視力は、人間的である必要さえ、ない。例えば、防犯カメラ的であってもさしつかえないところがあります。
また、さらには、視線である必要もない。
幾千代も散るは美し明日は三越 攝津幸彦(≫参考)
アリモノ(レディメイド)2つを、ウツクシとミツコシの音韻上の相同でもって連結して、世にも美しい、世にも刺激的な句が出来上がる。作者は、ここで語をハンドリングする手工業者です。
手短にいえば、多くの俳句は、 句のなかの《私》へと向かうことをやめています。簡単にいえば《ことば》へと向かう。
カネのためなら人も殺す、ならぬ、ことばのためなら自分も殺す、というわけです。
ただ、そこで《私》の非在が、匿名性に結びつくかといえば、(ある部分で俳句に作者名は不要とするラディカリズムもないではないですが)そんなことはなく、署名=作者名が句ごとに烙印されるという手順です。《私》の製造責任は残り、作者名は、一種の商標となる。俳句のなかを生きる《私》ではなく、読者の指標としての作者名。それでなんら差し支えない。
作者=《私》は、雲散霧消して形をなくす。ただし、それでも「香り分子」として残り、その句その句の誂え品としての価値を保証することはするのです。
テキサスは石油を掘つて長閑なり 岸本尚毅
誰目線やねん?というこの句。観光客か経済産業省の視察団かテキサス人か。そんなことを思う読者は、いまいないでしょう。テキサスの砂漠に立っているのは誰でもかまわない。それでも、この句の馬鹿馬鹿しいまでに突き抜けた感じは、「岸本尚毅」という商標に似つかわしいものです。
石原ユキオ氏は、「石原ユキオ」のブランド戦略について試行錯誤の途中なのかもしれません。「統一感がまるでない」現状を鑑み、一種類の《私》に統一するよりも、そのときどきの憑依されたキャラで統一しようという決断。これは多くの俳人が採る方法とは違っていますが、俳句のなかの《私》と現実の《私》のあいだの無用の密着を避ける、距離をとる、という意味では同じです。
飛躍を承知でいえば、俳句とは相対化の作業です。例えば《私》が見ているという遠近法も、その遠近法を操作する/俳句にする。これは相対化の作用を駆使することです。《私》がナニナニをするという《作中行為》もまた、それを対象化する。
《私》は、俳句を書く主体である以上に、俳人がみずからの俎上、机上に載せる《対象》というわけです。
intermission
石原ユキオ氏のブランド戦略において、《作中行為者》としての(複数の)《私》が強く意識されるのは、ひとつには、みずからのact(行為する/演じる)への読者の期待を読み取ってのことかもしれません。
うら若い女性が詠む句には、うら若い女性が登場することが、とりわけ全国一千万人の爺ィ読者、もといお爺ちゃん読者に期待されているという、ウソかホントかは実証されていないマーケティング上の分析がふわっと存在する(それって回春剤に過ぎないと思いますが、それはそれとして)。それなら現実に「若くてチャーミングな石原ユキオさん(棒読みではありません。為念)」がそのまま登場するのがいいんじゃないの?という意見もありましょう。
ところがコスチュームプレイに走ってしまう石原氏。そこにはやはり含羞があると見るべきか。俳句を詠むとは、ある層の彼女たちにとって、化粧(それは一種類ではなく、昼間の仕事用、夜のお仕事用、週末用と使い分けられる)であり、コスプレであるのかもしれません。
だとすれば、これもまた、現実の《私》とは違う俳句のなかの《私》が仮構されていると見るべきでしょう。
3. 自由律俳句の《私》成分
現実の《私》と俳句のなかの《私》の関係が、こんなにも融通無碍ななか、現実の《私》と俳句のなかの《私》を(私=筆者から見れば)非常に生真面目に同一化しようとする(そのように見える)俳句もあります。
最近、ふとしたことで知った「自由律俳句」が、それです。
もともとはツイッター上で「自由律俳句は文語体を使わない」「定型は使うよね」というやりとりを眺めていたのですが、いくつかの自由律俳句(現在の作)を読み、やりとりを追っていくうち、 自由律俳句における《私》成分の濃さ、現実の《私》に貫かれた話法のことが、むしろ印象的でした。
そのあたりのことは。自分のブログに書きました。
≫自由律俳句・断章
≫自由律俳句・断章【補足】
このブログ記事を書くにあたり、ツイートとして引かせていただいた藤井雪兎さん(「層雲」所属)、矢野風狂子さん(「草原」所属)のコメントが(引用以外も含め)、たいへん示唆深かった。またクリアカットでもある。そうでなければ自由律俳句に不案内が私が今回のようなことを考えることはなかったでしょう。改めて感謝いたします。
この記事で「《自分》コンシャス」という言い方をしました。改めてもう少し説明すれば、 俳句のなかの《私》が現実の《私》との同一性を求め、なおかつそれを句で表明しようとする態度、といったことが言いたかった。
このうち「同一性を求め」というところまでは俳句全般に多く見られる(複数の《私》への志向がある一方で、やはり多いのだ)が、それをさらに俳句作品でも表明しつづけるという態度が、いわゆる定型俳句に慣れ親しんだ私には、少々驚きだった。
そのへんは、話題のきっかけになった次の部分。
定型俳句で「けり」とか使ったけど自分じゃないみたいで気持ち悪い。やっぱ普段使わない言葉を使うのはおかしいよ。定型の人は、最初はみんな慣れないとか言うのだろうけど、腑に落ちない。俳号や自愛が肥大化して気にならなくなるのかも知れない。なんかの病理だ。「自分じゃないみたいで気持ち悪い」は実感なのでしょう。しかし、現実の《私》が大きく後景へと身を引き、《私》が雲散霧消した多くの俳句(定型俳句)にとっては、「自分じゃないみたい」という気持ち悪さ/違和感は、かなりの唐突感があります。
「I Don't Wanna Grow Up」:自由律俳句集団 『鉄塊』のブログ
多くの俳句は、《自分》コンシャスであることをやめていますから、「自愛が肥大化」は、むしろ「自分じゃないみたいで気持ち悪い」ほうにむしろ当てはまると考える「定型俳人」が多いでしょう。このあたりは、「自由律」側・「定型」側の双方が、「思ってもみなかった」ことかもしれません。
「自分じゃないみたい」なことに何の痛痒も感じない「定型」俳人は、想像以上に多いと思います。
自由律俳句は、五七五や季語に縛られることがない現実の《私》という設定が重要なのだろう、と大雑把な捉え方(で、すみません)はしてみたものの、それ以上には掘り下げることも具体化することもできなかった私ですが、そこで、格好の記事に出会いました。
橋本直さんが『鬼』誌から自分のブログに転載した「自由律俳句の近代」という記事です。
≫http://haiku-souken.txt-nifty.com/01/2012/08/post-cc50.html
自然主義的な思想傾向で言えば、「私」にとって表現したい言葉にわざわざ五七五の枠(韻律)をつけるのは、真実あるがまま(ほんとう)の「私」や「自然」を表現する行為とはいえない。19世紀後半、日本に移入された文学潮流と「自由律俳句」が密接に結びついている。もちろんこれが「自由律俳句」のすべてを言い表しているはずはない。また「自然」との関係という部分で、ここで展開する話題よりもさらに広範なテーマ(近代化のなかの自然と個人等)を含むものですが、少なくとも、私が自由律俳句に感じていた《自分》コンシャス、その淵源をはっきりと見せてもらった感じです。
歴史的な「封建制」のカウンターとして「自由」があるなら、定型は軛(くびき)でしかない。軛から解き放たれた《真実あるがまま(ほんとう)の「私」》は、その創作物(自由律俳句)の主です。《複数》へと微分化されることもなく、同一性を保ったまま、句作品として表現すると同時に、句作品が、《真実あるがまま(ほんとう)の「私」》を伝える。
放哉や山頭火は(…)伝記的情報が作品とセットでメディアに流れることによって私小説的に作品が受け入れられ、アウトローであったことによって評価されている。なるほど、私小説と捉えれば、よくわかります。評伝的事実は決定的に重要です。主婦が「山歩きの会」で何度「分け入」ろうが、読者にはアピールしない。家族平和で息子も無事東大に入学した高級官僚がたまに帰郷して、墓の裏に回っても、なんのこっちゃ?です。
それでは、いま自由律俳句を書いている人たちは、どうなのでしょう。放哉や山頭火のような評伝的事実をバックボーンにできない人がほとんどでしょう。また、荻原井泉水の説いた「自然、自我、自由、此の三つの頂点に依って支へられたる実践的思想」をそのまま俳句として実践しているわけではないとしても、軛から解放されて自由に、そして《ほんとうの自分》を《俳句のなかの私》と同一視しているように見えます。
ただし、「軛」は、もう封建制ではない。いま自由律俳人が戦っているのは、「定型俳人」から浴びせられる「俳句はやっぱり五七五でしょ?」「なんで季語がないの?」「俳句は季語の入った詩よ!」といった五月蝿い教条・教理・決めつけかもしれません。
「有季定型を否定する詩が、あくまでも「俳句」を名乗り続ける必要があるのかという素朴な疑問は、常に心にある。確固たる誇りと自負をもって現代詩という大陸へ大いなる旗印をかかげ民族大移動なさればよいではないか、と思う。(夏井いつき)」(引用:中村安伸・10年前と現在――角川「俳句」平成14年6月号)こんなこと言っている人もいらっしゃいます。手を使うサッカーがサッカー場でプレイするのは、どーなの? ラグビー場へ行けば? みたいな感じでしょうか。
「無季や自由律のものもあり、小中学校の教科書にも載せられている。しかし、これらは「俳句に似たもの」とし、「俳句」と区別する必要がある。」(俳人協会副会長・岡田日郎)「俳句に似たもの」ってw 人間モドキ(マグマ大使)とかガンモドキみたいじゃないですか。
引用:神野紗希・「俳句に似たもの」のゆくえ
ただ、自由定型と定型にまつわる、このような形式上の差異には、はじめからあまり興味はないのです。律(規範・決まり)からの自由という点も、律を重視する点も(それぞれ自由律俳句と定型俳句)、それほどの関心はない。
俳句のなかの《私》の様態が、自由律・定型で、というよりも自由律から有季定型までを含む俳句全体の幅のなかで、そうとう違う。現実の《私》を俳句においてどう捉えるかという点で、まったく異なる態度が存在するという事実こそが、私の関心の焦点。
《自分》コンシャスについて、自由律俳人・自由律俳句愛好者が無自覚であるとは思いません。
【お知らせ】自由律な会アぽろんにおきまして、ポエムの会 #アぽろんポエ部 発足しましたw ついったでダラダラ詩を垂れ流したい自己顕示欲の強い困ったチャンはいねが!? 共に悪の華を咲かせようではありませんか。どうぞ奮ってご参加下さい!#アぽろんポエ部 付で、ポエっちまいな!
— おがさわらさん (@OGA0531) 8月 17, 2012
「ダラダラ詩を垂れ流したい自己顕示欲の強い困ったチャン」といった自己戯画化は、《自分》コンシャスの現代的な読み直しです。案外醒めています。当たり前ですが、人のアタマは明治のままではありません。
「自由律俳句の近代」、大変興味深く拝読しました。日本が「ある程度」の近代化を終え、日本人が「ある程度」の自由を獲得した今、自由律俳句は自らの存在意義を問い直す時期に来ているのかもしれません。
— 藤井雪兎さん (@F_set) 8月 18, 2012
藤井雪兎さんは「自由」という観点から、「自由律俳句の存在意義を問い直す時期」と表明されていますが、これはどうなんでしょう? 歴史(100年の時間の流れ)によって変わったのは、むしろ《私》概念だと思います。
「近代化」や「自由の獲得」といった概念によって近代主義(モダニズム)が措定した《私》は、その意味や意義が揺さぶられてしまった。ポストモダンの主体概念などと、しちめんどくさいことを言わなくとも、少なくとも文学作品の内部、あるいはかたわらに《私》が前世紀のようにすっくと立つという風景はなくなった。
もっとくだけていえば、 《ほんとうの私》って、素晴らしいの? それでなんかいいことあるの? 《なにものからも自由な私》って、どんな物語だよ? といった感じでしょうか。
《私》という軛にがんじがらめになった《私》、というのでは、冗談にもなりません(自分という病)。
石原ユキオは、事務員でもS嬢でも腐女子でもない《ほんとうの私》を求めたりしない。岸本尚毅は、テキサスの油田を眺める《私》がいったい何者なのかに悩んだりしない(他人からは「いったい何者やねん?」とツッコミを入れられるかもしれないが)。
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さて、とりとめのない駄文も、そろそろいい加減にしないと。
いわゆる自由律俳句といわゆる(有季)定型俳句は、《私》というきわめて厄介なものについて、ずいぶんと異なるアプローチをしている。これは見た目の違い以上に異なる。
譬えれば、肌や鼻のかたちの違う人々に出会ったとき、見た目の違いにまず驚くが、その文化は、見た目以上に異なっていたという、文化人類学的な異文化体験に似ていなくもない。私としては、文化相対主義的にそれぞれの価値を認めるという態度を保ちながら、違いは違いとして明確にしておきたい。
2つの文化に棲む人同士が一緒に暮らせるのかどうかは別にして、武器を振り上げて抗争することはない。互いに排斥し合うこともない。互いに恐れることも、軽んじることも、どちらも愚かなことです。陣営でも党派でもないでしょう。
定型俳句は、自分たちだけが俳句だなんて排他的優生学みたいなことを言うことはない。自由律俳句は、迫害された殉教者集団みたいに内側の結束ばかりに向かうこともない。
俳句は、どちらか一方しか棲めないというほど狭くはないのだから。
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