2012-08-19

【俳誌を読む】中村草田男研究誌の誕生 季刊同人誌『晶』創刊号を読む 三島ゆかり

中村草田男研究誌の誕生
季刊同人誌『晶』創刊号を読む

三島ゆかり



『晶』は長嶺千晶を中心とした、中村草田男研究を志向した同人誌。

俳句の世界では、結社という師弟関係により師の作風が会員である弟子に伝承されて行く。師系という言葉がある通り、それが何代も続く中で創始者の作風は維持され、また、どこからか新しい血も混じって行く。今回の場合、中村草田男→香西照雄→長嶺千晶という流れなので、草田男から見れば長嶺千晶は孫弟子にあたる。師系の流れの中で、みずからのアイデンティティのよりどころとして、孫弟子が創始者の研究に向かうのは、もっともなことである。

一方また俳句の世界では匿名句会主義とでも呼ぶべき伝統もあり、そこでは師弟に関わらず、名を伏せられた句をテキストとして余計なことを付け加えず読み、勝ち負けを競う中で実作や鑑賞の能力を錬磨する。かの学校対抗の一大行事はまさに匿名句会主義の伝統にのっとったものだし、さらに最近では、お客様からお金をとれるレベルまで鑑賞とプレゼンテーションをスキルアップして優劣を競う句会もあるらしい。匿名句会主義を入口として俳句を始める人は、若い世代を中心に今後ますます増えることだろう。そんな中で、個人研究誌の創刊は、時代錯誤なのか、それとも一周先を行っているのか。

さて、『晶』である。今回は創刊特別寄稿として、外部の方の記事が目を引く。

村上護 韻文と散文の間

極端に要約すると、音楽や美術は言葉で説明してももともと対象が異質なので取り違えることはないが、俳句の場合、もともと対象が同じ言葉なので峻別が難しく、それは同時に実作と批評の間の曖昧さになる、という。その通りだろう。俳句でしか表現することができないある種の感覚を、同じ「言葉」というもので説明することは、確かに難しい。

栗林浩 俳句作家へのアプローチ

テキスト至上主義の存在を一方で認めつつ、「さて、ことは俳句である」として異論を唱える。(前略)「原則的には季語が五音ほど占めるから、作者の独創部分は十二音程度である。十二音を如何に眼光紙背に徹して鑑賞し、批評しても、純粋花鳥諷詠ならいざ知らず、作者の内的な複雑な感慨を読み取るには、情報が少なすぎる」とし、「草田男の作品を鑑賞・批評するとき、テキスト至上主義でも良いのだが、彼の人間としての特質を理解すると、作品の価値がさらに高まってくるのだ」と展開し、さらに草田男鑑賞のためのキーワードを八箇条紹介している。

中岡毅雄 「高浜虚子論」の場合 俳人研究の一試み

中岡毅雄氏自身が三十代で執筆した『高浜虚子論』を引き合いに、個人研究の苦労や、研究して初めて分かる醍醐味について述べている。

三氏いずれも単なる祝辞にとどまらず、今なぜ個人研究誌なのかに踏み込んだ含蓄の深い内容であると感じた。

一方、受けて立つ長嶺千晶は、『草田男はヒューマニストだったのか?』という長い論考を書いている。であるが師系に礼を尽くしすぎていて、いささかまどろっこしくも感じられる。記事の副題が<香西照雄著『中村草田男』の検証(1)>である通り、香西の著書を紹介しつつ部分的に長嶺が異論を唱えるような体裁になっているのだ。『日本国語大辞典』からの引用も長すぎる。ここは、ややこしい入れ子の構造を採らず、長嶺が主張したいことを中心に、はばかりなく論を展開していいのではないか。さらにいうと、この記事の中で、長嶺はただの一句も草田男の句を引用していない。となると、論のための論のような気がして、読者の私としては物足りない。俳人研究である以上、その俳句作品を通して、作品の魅力や作家の魅力が伝わってくるような論考であってほしいのだ。

多分今回は創刊号で、外部からの特別寄稿が多いという事情もあったのだろう。せっかく同人が四名いるのであれば、四人が草田男の同じ句を丁寧に読み合うというようなやり方も今後は出てくるのではないか。草田男の遺した一句一句の肌触りが伝わってくるような誌面作りを期待したい。

なお、余談ながら季刊同人誌『晶』のブログがある(≫http://kikandoujinshisyou.blogspot.jp/)。こちらはQ&Aや句の添削の記事もあり、どこか総合誌のようなテイストで、ひと味違うものとなっている。紙媒体とブログが噛み合って二大紺円盤としてぐんぐん回っていったら楽しいのではないかとも思う。




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