藤後左右の初期作品以外の句をほとんど知らないので
全句集を勉強会に持ち込んで読んでみた
関悦史
藤後左右(とうご・さゆう)といえば広く知られているのは、以下の句あたりだろう。
夏山と熔岩(ラバ)の色とはわかれけり
萩の野は集まつてゆき山となる
噴火口近くて霧が霧雨が
曼珠沙華どこそこに咲き畦に咲き
大波のどんと打つなり松露掻き
舞ひの手や浪花をどりは前へ出る
滝を見るしまひに巌があがるなり
蟇(がま)の貌(かほ)チブス患者の夢にくる
横町をふさいで来るよ外套(オーバ)着て
外套や館の出口は横町に
室内を煖炉煙突大まがり
口々に都をどりはヨーイヤサー
どれも大胆率直でこの上なく印象鮮明。物や景色が、物理的な量塊やパターンに瞬時に還元されてしまったような即物的な力強さがある。
ところがこれらは皆、初期の作品であって、その後藤後左右がいかなる句を詠んでいったのかとなると、途端に何も思い浮かばなくなる人が多いのではないか(少なくとも私はそうだった)。
藤後左右は明治四十一年(一九〇八)年、鹿児島県曽於郡志布志町生まれ。京都帝国大学医学部に入学して、鈴鹿野風呂、平畑静塔、長谷川素逝、井上白文地を知り虚子に師事。「ホトトギス」に投句開始。その二年後にはいきなり「ホトトギス」の巻頭を射止めてしまう。その時の句が次の四句だった。
和歌の人花のくもりに海苔とれる
加太の海の波のり舟ぞ若布刈り
三人に落花の庭の道成寺
たかうなに幾千の竹生ひ立てる
勤務医となってから「京大俳句」を平畑静塔、井上白文地、中村三山、長谷川素逝、野平椎霞らと創刊。のちの京大俳句事件による弾圧は免れたが、召集を受け、軍医として東南アジアに渡ることになる。
最初に上げた有名句の時期から、戦争を挟んで昭和四十三年まで、年齢でいうと作者六〇歳までの句が第一句集『熊襲ソング』に収録されていて、その句集の序文を平畑静塔が書いているのだが、初期作品には「鷹揚でしかも適確」「無雑作」「要を得た簡潔さは見事」と絶賛を惜しまなかった静塔が、復員してから先の句には至って冷淡で、「スラバヤ帰還以後の作品については、私はこれを句集の序文に援用する気持ちはない」などといっている。
左右本人は「出て来る句が固定したと感じたので自分の五、七、五を解きほぐす工作にとりかかった」(あとがき)という。
戦時を挟んで作風の転換があったようなのだ。
以下は、昭和二十二年から四十三年、『山鳥』『芭蕉』『天街』等の俳誌に参加していた時期の作。
秋の雲からみた藁屋根はどんなだろう
大根のしつぽに雪が降つて降つて
留学の留守花八ツ手切に巨大
紫陽花の硬花反省皆無に姸
花菜黄金医者はたのしも患家の縁
黒いオーバーのおみ足を組まれては困ります
春の目覚め船外機の奴が騒々しい
春愁やのやに当る口語探そうや
貝掘りのヂヂ貝拾いのババ浜は皺だらけ
そうだ千鳥句の下手だつた素逝も死んだ
素逝の奴うまくなつたとたんにあの世だ千鳥
冬の海から見る丘の松はたまらない
枯松葉は非情にとがつていてやさしい
土佐犬の竜馬は主人にも客にもやたら吠える
畠の大根は抜いて漬けるように言つた
先回りしてしまうと、第三句集『新樹ならびなさい』のあとがきで左右は「やがて私は六八六の形式に辿り着いた。六八六型、二十字が口語俳句としては最短の形で、この形で大概の口語俳句を作れると確信し、実験にとりかかったのである」といっているのだが、この時期、既にそうした傾向が強まっている。
《春愁やのやに当る口語探そうや》は一読して何のことだかわかりにくいが、切れ字の「や」に当たる口語を探そうといっているのである。
《花菜黄金医者はたのしも患家の縁》《貝掘りのヂヂ貝拾いのババ浜は皺だらけ》などの生活詠では、左右本人が井伏鱒二の小説にでも出てきそうな人物に見えてきて、このひどく率直に詠まれた俗事もそれなりに味わいはあるが、初期作品の、物や景観の視覚的印象に素手で迫るような異様な迫力は次第に薄れていく。
「千鳥」を詠んだ句を二句ばかり上げておいたが、これは実は「千鳥相手に」と題された連作で(全句集を見ると連作が滅多矢鱈に多いのだ)、全部で百句ある。
あの夫婦など睦ましそうだがね千鳥君
独り身はうらやましいがあわれだよ千鳥君
淋しいこともたまにはあるだろうに千鳥君
千鳥の写生に興じているのではなく、千鳥が寓意や象徴であるわけでもなく、アニミスティックな共感の対象になっているわけでもない。
とめどなくわきあがる想念を片端から託すためだけに使われているのである。
会う度に好きだと言わせるからね千鳥君
あの時はああ言つたのにと泣くからね千鳥君
何を見ていたかと聞くからね千鳥君
月に十日は放つといて貰いたいね千鳥君
もとの身体にして戻せだからね千鳥君
どうも女性に関してはかなり苦々しい思いを抱えていたようで、とびとびに拾ってもこの調子。幾らでも出てきて、しかし連作全体として構築感やグルーヴ感が出てくるわけでもなく、ひたすら平板に「想念」+「千鳥君」が続く。
若い娘には係累があるからね千鳥君
やはりそんなわけにはいかない千鳥君
だんだん、単品では何を言っているのかわからなくもなってくる。
さつきの貝殻拾いは母娘だつたのかね千鳥君
貝細工にする貝殻拾いだつてね千鳥君
貝殻拾いで食べてゆけるのかね千鳥君
貝殻拾いの老人には逃げないね千鳥君
今度は貝殻拾いに関心が移った。これもひたすら千鳥君に投げかける。
千鳥よ走れ俳句も作れ楽しく作れ
句は千鳥五ミリと七ミリの竹の作業か
句は千鳥竹とビーズで耕すか
句は千鳥トマトを成らすか芋にするか
今度は自分の句作行為自体に関心が移り始めた。
連想のネタが尽きてきたように見えるが、句作を例えるのに「竹」「ビーズ」から「トマト」「芋」などが出てきて、農作業を経て、労働、生活の現場へと連想がずれていき、また別の局面に入る。
千鳥よ人は銀行が仕舞うとき走る位だ
千鳥千鳥アベベのように唯走れ
走るのが君の一生の仕事かね千鳥
昔千鳥句は男子一生の仕事でないと北人はやめた
ここから京大俳句時代の仲間の誰彼を思い出し始める。その中にあるのが先に挙げた素逝の句。
悪戦苦斗全く楽しくないよ千鳥
それに句を作つたあとが眠れないよ千鳥
こんな馬鹿馬鹿しい事があるか千鳥
女と遊んだ方が余つ程ましだよ千鳥君
千鳥君やめろ俳句で飯は食えないよ
だが千鳥虚子と芭蕉は俳句で喰べた
俳句じやないボヤキだつてそうか千鳥
だんだん疲れて馬鹿馬鹿しくなっていたらしい。
愚痴が十何句か続いて、ようやくこの連作、終わってくれた。
この調子でつきあっているとキリがないから他の連作は飛ばすが、似たような作りのが以後無数に出てくるのだ。語りかける対象を「千鳥」ではなく「ムツゴロー」に変えたものとか「菜の花」に変えたものとか。
要するに大胆率直に叙す対象が、事物の外観から、自分の想念に変わってしまったのだ。
●
第二句集『藤後左右句集』(昭和五十六年)は、有名句としては《チキンライスと滝の睡眠不足な味》を収録しているが、こちらにも「スンバワ島軍記」という一大連作が含まれている。
「五十五年六月志布志の店頭でマンゴをみつけた。メキシコ産のマンゴを食べたら戦地を思い出した。戦地の句をつくるのはこれに参加した句を作る者のつとめだったと思い、かなり無理をして」(あとがき)作ったという。
真剣なのだ。
戦地に到着するまでには僚船の日南丸が敵潜水艦に撃沈され、多くの戦友を喪ったりもしている。
プルーストのマドレーヌよろしくマンゴから引き出された記憶の海、そのあらゆる想念を込めた渾身の連作とは、いかなるものか。
くらいからがやがや云って上陸した
兵隊の知らない闇が手に当る
茶碗むしが高圧滅菌機でできたとは
茶碗むし毎日できたあついんだ
茶碗むしは望郷を治す薬だった
とんでもない細菌用の寒天だよ
水牛は硬いが土人は柔らかいそうだ
どうもあまり緊迫感や悲惨さというものがない。軍医として持ち込んだ実験器具で茶碗むしなど作っている。
軍曹が現地の酋長の娘と見合いをさせられたりもしたらしい。
酋長と女が岩に立っているのです
酋長のほかにも何名かいましたよ
顔はくらくてよく見えませんでした
そんなに若くはないようでした
一句の独立性といったものには、あまり関心がないらしい。
《そんなに若くはないようでした》などは単独で見せられたら何のことやら全くわからない。
トラック用意胸くそ悪いが出発だ
終盤、転進後の作。抑留生活が終わって帰るところらしい。べつに御中虫の句ではない。
読み通すと、およそ普通の戦場詠であれば詠まれない戦地の日常が妙につぶさにわかるという功徳はある(「茶碗むし」を作っている戦場詠というのはおそらく他にないだろう)。戦地の日々が嫌で嫌でしょうがなかったというのも端々から伝わってくる。左右が伝えたかったのは結局そこだったのかもしれない。
なお昭和四〇年代あたりから左右は各種の公害反対運動、埋立反対運動などに関わっていて、そうしたことがまたいちいち膨大な連作の素材になっているのだが、キリがないので省く。
年譜(後掲)を見るとこの後、第三句集『ナミノコ貝』というのが記載されているが、全句集にそういう部立てはないので、これは選集のようなものらしい。
その次の『新樹ならびなさい』(平成元年)が生前最後の句集となる(句集の刊行年次を見て、えっと思った方もいるかもしれないが、左右は平成三年まで存命だったのだ。語り伝えられる句の乏しい後半生が長大なのである)。
新樹ならびなさい写真撮りますよ
雪は木に当ってみたら木もつめたい
祈る感じで太いわらびを握ってた
柿を壺にさしたら垂れてきてしようがない
マーガリンになるのかと花菜に云ってやった
持って回ったところや文学臭の類が全然ないのは相変わらずで、連作癖も相変わらず。「マーガリン」の句は「菜の花」への語りかけがひたすら並んだ中の一句である。
女ならば鮎のたまごを産んでみろ
女に鮎のたまごあれば泳ぐだろか
乱暴な上に、連想の跳び方がよくわからぬ。
研ナオコの腰を振るのが見えない冬
「研ナオコ」の連作というのも出てくる。これは二十六句。作者の住む志布志にコンサートに来たことがあったらしい。
失恋の歌を唄いすぎる 冬のナオコ
客席に馬の値を聞く ナオコは冬
有季定型厳守の立場でもないはずだが、とにかく全句に「冬」が投げ込んであって、利いているやらいないやらよくわからないが、一応利いているのだろう。
なお、ある時期から左右は句に一時空白も用いるようになっている。
連作最後の句がこれ。
志布志の金 吸い上げていった 冬のナオコ
見には行ったが、さほどありがたがっているわけでもないようである。
電信ばしらの無い冬の波はまるみえで
泡になって冬の波が曳く嫌いだよ俺
この辺の率直な感慨は悪くないのではないか。
埋立反対ともに斗おう冬の波と語る
患者も診ず年始にもゆかず鼻毛のばす
信長よ初夏の安土に工場立てるか
信長不満湖と青田ではどうにもならん
信長馬鹿青田にトルコ建てればよい
信長の連作も当然こればかりではなくて延々と続くのであるが、これは自然保護大会に出たときの作。連想があらぬところへ走っていって「千鳥」どころか信長とも平気で話す。
埋立反対闘争の句といい、意気の上がらぬことこの上ないが、ことさら変なことをやって見せているという臭みと無縁なのは特筆に値しよう(言い換えればナチュラルに変な人だったのかもしれないのだが)。
あの娘草だ秋の七草に加えてやれ
手のひらからコスモス生えぬかと手をみてる
パセリ食べよか刺身食べよか眼鏡食べよか
お尻並べ無礼な車めとパセリ食べる
妻もいるし灰皿もあるし夏も来たし
灰皿の半分がいつも見えてるくらし
銀河などは通勤電車で行けるところ
葛の花を人間にすれば赤い靴
曼珠沙華の長いまつ毛は困ったもの
曼珠沙華を置時計の前に置く針が見えぬ
この句集のあとがきに先ほど引いた「六八六、二十字の口語俳句」の探求ということが出てくるのだが、わざわざ言上げしているわりには厳密に「六八六」になっている句はあまりない(これ、某所の勉強会に全句集を持ち込んで、出席していた神野紗希さんに言われて気がついた)。
なお『新樹ならびなさい』は八年間分、二三五九句という大量の句を収めている。これも尋常ではない。「一句一句すべてに愛着があるので、どの句も落とせないのである」という左右の言葉は、湧き出した連想全てを連作に並べ込んでいく創作方法自体とも根深く繋がっているのだろう。
以下は未刊作品から。全て平成に入ってからの作。
菜の花よふざけるんぢやないよ株は止めな
うどん食べる客に見られて句会の春
生節工場で案内をするでもない婆(ばば)さまたち
生節賣つたが計算の出ない婆さまたち
僕は本數で買う婆さまたちは目方で賣る
生節十一本二千円は拂いすぎだ
金の好きな坊主の墓は小判型だ
円柱の墓は色好みの僧にちがいない
時雨れてきても土井たか子氏は正面から
ポインセチアも女性も密植すれば男性
御馳走食べタマゴサンド食べ花は食べず
アメンボにも将来はあるの脚が長いの
万葉植物の説明書を読むひまがありますか
万葉人は朝から恋をして25で死んだ
やまももの実が道に落ちると子供になる
ふんづけるとやまももの実はぎゆつと泣いて
一面のやまももを踏んでゆく僕のつらさ
やまももの実踏み宇宙飛行士になつたつもり
宝塚市は美人妻が多い彼岸すぎ
車椅子で三十三間堂は廻れない秋は嫌い
京の萩も全裸で抱き合うのも両方見たい
2号さんの下宿屋もみたい曼珠沙華
ベープマットに弱い私は蚊に近いのか
勉強会に持ち込んでみての結論は、大方、初期作品に匹敵する名句はあまりないということに落ち着いたが、個人的には、先行作があると知らずに似たような句を作りかねないと感じたところもあり、読んで無駄ではなかった。何より、この飾り気のないあけすけな詠みぶりは、気持ちの悪いものではない。
●藤後左右略年譜(全句集巻末に付されたものから抄出)
●明治41年(1908)
1月21日、鹿児島県曽於郡志布志町にて出生。
●昭和3年(1928) 20歳
京都帝国大学医学部入学。京大三高俳句会入会。鈴鹿野風呂、平畑静塔、長谷川素逝、井上白文地を知り虚子に師事。「ホトトギス」に投句開始。
●昭和5年(1930) 22歳
「ホトトギス」巻頭となる。祝賀会があり日野草城と会う。
●昭和6年(1931) 23歳
満州事変。世相と無縁に京大医学生として俳句。
●昭和7年(1932) 24歳
京大医学部卒業。松尾内科を経て京都市立病院に奉職。松尾いはほ、五十嵐播水とともに「蜻蛉会」に出席。ために後年の新興俳句弾圧の目を逃れる。
●昭和8年(1933) 25歳
「京大俳句」を平畑静塔、井上白文地、中村三山、長谷川素逝、野平椎霞らと創刊。
●昭和11年(1936) 28歳
結婚。伏見稲荷、新桃山に住む。
●昭和12年(1937) 29歳
長女誕生。学位論文準備、俳句への情熱は漸次薄れる。
●昭和14年(1939) 31歳
京都市立病院にて伝染病研究に没頭。
●昭和15年(1940) 32歳
「京大俳句」平畑静塔ら8名検挙、ついで渡辺白泉ら6名、のちに西東三鬼も検挙。
●昭和16年(1941) 33歳
医学博士となる。第二次大戦勃発。
●昭和18年(1943) 35歳
京都市立病院勤務のまま臨時招集。第四十六師団野戦病院、防疫給水隊に配属。
●昭和19年(1944) 36歳
1月、門司から出航。シンガポール、ジャカルタ等を経て 3月カムラン湾沖合にて僚船日南丸撃沈。幾多の戦友を失う。4月スンダ湾上陸。終戦まで野戦病院勤務。
●昭和20年(1945) 37歳
終戦。武装解除後、レンパン島に抑留。
●昭和21年(1946) 38歳
歯根化膿症により入院、病院船で内地帰還。鹿児島、末吉町に復員。
●昭和22年(1947) 39歳
末吉町に藤後内科医院開業。義父死去に伴い木材会社の社長も兼ねる。翌年、志布志町に藤後内科病院設立。院長に。
●昭和24年(1949) 41歳
西沢雀孫の「山鳥」公刊に同人となり選者をつとめる。
●昭和26年(1951) 43歳
中尾良也他とともに「天街」創刊、代表同人。
●昭和30年(1955) 47歳
波止影夫の「青女」と「天街」が合併。「芭蕉」創刊。同人参加。
●昭和33年(1958) 50歳
志布志町に精神科開業。第二次「天街」の代表同人。
●昭和37年(1962) 54歳
藤後内科病院の本館類焼。
●昭和38年(1963) 55歳
鹿児島県曽於郡医師会長。
●昭和43年(1968) 60歳
第一句集『熊襲ソング』刊行。
●昭和46年(1971) 63歳
志布志湾公害を防ぐ会の初代会長に推される。志布志湾公害反対連絡協議会会長就任。
●昭和55年(1980) 72歳
鹿児島地裁に公有水面埋立免許取消請求を提訴。
●昭和56年(1981) 73歳
第二句集『藤後左右句集』刊行。『熊襲ソング』再版。
●昭和57年(1982) 74歳
横山白虹の後任として現代俳句協会西日本地区会議議長。
●昭和60年(1985) 77歳
西日本地区現代俳句協会会長。
●昭和61年(1986) 78歳
第三句集『ナミノコ貝』(現代俳句の一〇〇冊)刊行。
●平成元年(1989) 81歳
第四句集『新樹ならびなさい』刊行。
●平成3年(1991) 83歳
6月11日、死去。
●
2012-08-05
藤後左右全句集を勉強会に持ち込んで読んでみた 関悦史
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2 comments:
読みました。予想外に長かった。でも全て一通りは読みました。藤後左右と言う俳人を少しは分かった様な気がします。
死ぬほど笑わせてもらいました。句と合いの手のようなコメントと、漫才のようです。小生、3度読みました。爆笑は止まりません。ナチュラルに変な人。至言だと思います。坪内捻典氏なぞ、失礼ながら足元にも及ばないでしょう。前後左右ぐるっと変な人の俳句、あと何回読むか、自分で楽しみです。
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