2012-09-16

朝の爽波 33 小川春休


小川春休






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朝の爽波 33  小川春休

前回『湯呑』の後記にて、三島由紀夫による小論掲載の経緯を爽波自身が述べている箇所を紹介したところですが、今回は三島による小論の中から、爽波作品の特質とその変化について述べた箇所を紹介します。

 ――たまたまここに、爽波氏の第二句集(昭和二十九年一月―四十三年七月)の草稿の写しがあつて、私は旅中これを時折繙いては、氏の句業の発展の跡を一望の下に見渡す機会を得たことを喜んだ。
 通読して感じたことは、氏がたしかに私のやうなファン心理を満足させるものを、すなはちその青春の憂愁とユーモアを、今もかはらず保持してゐる反面、私の知つてゐるかつての氏にはなかつた、苦い、折り畳んで圧搾したやうな、ある場合は鬼気さへ覚えさせるやうな、深い句を作つてゐることをも改めて認識した。しかし決してそれは、ジジむさい句でもなく、苦労性の句でもなく、世間ズレのした句でもなかつた。青春のさはやかさの特質と矛盾せずに、むしろその間に、かつて氏が実際に若かつたころは表現をためらひ、あるひは表現を困難に感じたであらうところの、青春の或る暗い不吉な精髄のやうなものが、今になつて句作に結晶してきたのである。いはば、一方の句をサファイヤとすると、一方の句は猫目石のやうである。かうした変化と進境には、忖度するに、氏の闘病生活が与(あづか)つて力あると思はれるが、この句集草稿を見ても、昭和三十一年位ゐまでは、私のよく知つてゐる、スポルティフな、動きの機敏な、イメージがまるでテニスの選手のやうにみごとに身をひるがへす爽波氏らしい句が並んでゐるが、三十二年頃から別の重い凝縮したものが姿を現はすやうになる。… 
(三島由紀夫「波多野爽波・人と作品」『湯呑』所収、初出「俳句」昭和四十三年十一月号)
さて、今回は第二句集『湯呑』の第Ⅳ章(昭和52年から54年)から。『湯呑』もとうとう今回で鑑賞終了です。今回鑑賞した句は54年の冬の句。年譜には特にこれという記載はありませんが、「青」11月号から始動した島田牙城編集長、編集スタッフ田中裕明・上田青蛙の若手体制も、軌道に乗り始めた頃でしょうか。次回から第三句集『骰子』の鑑賞に入ります。

盆栽にするどく飛びし落葉あり  『湯呑』(以下同)

盆栽は、野外で見られる大木の姿を鉢の上に再現することを目的として、剪定や針金を用いた枝ぶりの固定を行う。その作られた調和を破ったのは、本物の樹木が落とした一枚の葉。盆栽と本物の樹木の落葉との縮尺の差が、鋭く飛ぶ様子を一層鮮明にしている。

びしよびしよの雨となりけり落し水

稲刈りの直前、水を落として田を乾かし、刈入れに備える。その際に音を立て流れる水が落し水。「びしよびしよ」とは雨音であると同時に濡れそぼつ田園の景をも思わせるオノマトペ。雨音と水音との響き合いの底には、一段落した農作業への安堵感も滲む。

玉垣の内の羽音も日短

京都のいずれかの神社の玉垣か、それとも皇居のものであろうか。玉垣の内から、その外に佇む作中主体まで届く羽音は、逆説的にその静けさをも印象づける。こうした助詞「も」の用法は、ささやかな一事物と、時候・行事などの大きな季語との繋がりを見出すものだ。

鍋焼や洛南に風荒びゐる

鍋焼は、古くは鶏肉・魚介類・芹等の鍋物、今では鍋焼饂飩を指す場合が多い。洛南は京都郊外の南の方、「洛南に」という限定的な言い方は、自らは洛南の外にいて、洛南からの風音に気を止めている様子を思わせる。いかにも鍋焼饂飩の温もりが腹に染みそうな。

掛乞にひた濡れてある釣瓶桶

年の瀬に売掛金を回収して歩く掛乞。その回収先は、商店などの多い都市部が主であろうが、取引があればはるばる郊外にまで出張ってくる。掲句では、井戸水を汲んだばかりのびっしょり濡れた桶が、当地の暮らしぶりを想像させ、掛乞の大変さも言外に思いやられる。

顔見世へ黄檗山のほとりより

江戸時代、興行主が役者と毎年十一月に契約更新し、新メンバーで興行した「顔見世」。今でも京都南座の十二月興行は顔見世と呼ばれ、往時の名残をとどめる。宇治の万福寺、黄檗山のほとりというと穏やかな暮らしが思われるが、やはり顔見世は特別なのだろう。

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