〔句集を読む〕
俳句的人格
加藤静夫第一句集『中肉中背』
村越敦
ある作品(群)を読んで、ああこれは”あの人”の作品だと(薄い、わずかな接続感でもよいので)わかる、そういう信頼感や安心感のようなものについて考えたとき(参考:上田信治「フェイク俳句について」)、氏の作品はその「伸縮性」という点でまさにお手本と呼んでも差し支えないのでは、と感じた。
ねこじやらしほんとにぼけてしまひけり
ラブホテル正午の水を打ちにけり
蝌蚪に足われに労働基準法
断酒より断食易し草の絮
午前中の涼しいうちに別れよう
加藤静夫句集『中肉中背』(2008年/角川書店)より。
卑俗なものから泣き落としにかかってくる一句までその守備範囲は広く、氏はその中を縦横無尽に駆け巡って読み手を挑発し続ける。しかしあくまでもそれは読者にこう思われているであろうと想定される「俳句的人格」の枠を内側から突き破ろうとする試みであり、読み手側からすればその裏切りこそが心地よい。
結果として作品群全体としてふしぎな一体感が担保されている。言うならば、分裂症ぎりぎりのところできちんと着地を決める、名人芸である。
だから、
中坐して女へ電話都鳥
のような句にも悪意の無い氏に対して、愛のあるツッコミをもって接することができる。
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そんな「俳句的人格」の中を遊ぶ作者であるが、なかにはすこし趣向のちがう句も見られた。
春祭いつたん家にもどりけり
すごく、すごくよくわかる一句。
春祭にぶらりと遊びにいって、露店をめぐったりしていると知り合いなんかがいて、ひとりでいるのが嫌だからなんとなくみんなで行動するのだけど、そのうちたいして知り合いでない人と一緒にいることに疲れてしまって、というか人ごみのなかにいること自体なんだか嫌になってしまって、仕方がないから適当な理由をつけて「そんじゃ、またあとで」と家に帰る。(あとでまた来るかどうかはわからないのがポイント。)
その瞬間の爽快感、安心感たるや。別にいったん家にもどったところでやることがあるわけでもなし、本当は帰らずに祭りの場所にいてよかったのだけど、なんとなく面倒くさくて、という。
これはそんな氏の振る舞いをなんの衒いもなくストレートに描いた一句であるが、事物に対する作者の美意識のようなものまでもしかすると読ませてくれるのかもしれない、という点でおもしろかった。「俳句的人格」のひとつの現出としての「ほんとうの人格」を、ここでは描いているのかもしれない。
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他に好きだった句を、いくつか。
血液型同じ女と海市みる
警官がわれを見てゐる四日かな
ゆつくりと国滅ぶ酒あたためむ
初夢に日本人の現れし
葛飾やあたたかさうな焼死体
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