2012-09-16

しずかな空と枠内の過剰 有澤榠樝句集『平仲』 関悦史

〔句集を読む〕
しずかな空と枠内の過剰 有澤榠樝句集『平仲』

関 悦史



有澤榠樝(ありさわ・かりん)句集『平仲』には、性的な含意を持つモチーフが多いが、それとあわせて、ささやかな枠の中の過剰、どうでもいいことの過剰とでもいうべき要素がしばしば現われ、それがときに滑稽味を生む。

絨毯の一角獣を蹂躙す

まつくろな汁粉啜れり滝しぶき

ざつくりと半身あらず雪兎

生くるかぎり失ふ手袋の片方

《蜘蛛快楽(けらく)おのが糸もておのれ吊り》《めしきよらちりめんざこのちりぬるを》の「快楽」の見立て、「ちりぬるを」への横滑りなどとあわせて見れば、機知が中心にあるのは明らかだが、その機知の裏には情がたっぷりひそんでいる。ささやかな枠の中の過剰とは、機知という枠と情という過剰との相克によって形作られるものにほかならない。半身の欠けた雪兎、蹂躙される一角獣の加虐趣味も、そうした相克のひとつの現われである。

その情の少なからぬ部分をエロスが占める。

霧吸うて来し唇を汝に与ふ


二股に充てり大根(だいこ)のしづごころ

生りたらぬところさみしき瀧見かな

丸見えの桃の縫目を撫で下ろす

すりこぎとすりばちは対むめの花


エロスというよりは性器や、性の営みにまつわる露悪趣味といった方が正確だろうか。

この辺りの事情、あとがきを見ると作者当人にはとうに知悉されているものなのではないかとも思われる。

句集の表題『平仲』とは『平中物語』の主人公・平定文(平貞文)を指すが、作者の平仲像は以下のとおり。

《平定文は本院侍従への恋に悩乱し、グロテスクともいえる醜態をみせ、ついに焦がれ死んだ。今昔(註・今昔物語)編者はいともばっさり「極めて益無き事なり」と評している。まことにそれはそのとおりであろうが、あまりのおろかさにけなげとも思えてくる。》

つまり加虐も露悪も、このおろかさ、けなげさを肯定してみせるための含羞の現われであると、一応は言える。逆に攻撃性のほうが先走って句がとげとげしくなるのを防ぐために己に返すという機微もあるのかもしれないのだが。

エッシャーの階段降りつ昇りつ夏至

三次元的にはありえない無限に循環するエッシャーの階段で、加虐と含羞の間をさまようごとく、ひたすら双方向に運動し続けるものが到達するのが、昼が最も長くなる「夏至」だ。有澤は「降りつ昇りつ」の「益無き事」を昼の合理性の中に描き出そうとする。

葉もてんぷら花もてんぷら春のくれ

さらに、この句を例えば鳴戸奈菜の《なにもかも天麩羅にする冬の暮》の、「冬の暮」をバネとして、平坦にこの世いっぱいにとめどなく延び広がっていく狂的過剰と比べると、その加虐や幻想がおおよそ合理の枠内におさまっていること改めてわかる。

その闇を欠いた、しかし乾いてもいない幻想がわずかに窺っている他界を、「神人同形説」を芋虫にあてはめた綺想句から知ることができる。

芋虫の神は芋虫空しづか

この芋虫は自分が蝶になることを知らない。有澤の諧謔や幻想も「芋虫」の枠に留まって展開されるが、しかしここにも「夏至」と同じ位相に「空」が現れる。この、未来の変身を予示しながらも、固体のように機知=既知の潜在性で埋められている天が、有澤の句を成立させる土台となっている。

しずかな空という大枠の中で織りなされる「芋虫」の過剰さ百態は、人(というよりも己)のおろかさ、けなげさを外側から読者に見せ続ける。

この句集の愉しみは、蝶へと解放されることもなく、芋虫が芋虫のまま神となる、解放への通路があるともないとも判然としない世界での「芋虫」の精神の自由に、寄り添うともなくつきあうことにある。


※本書は著者より寄贈を受けました。記して感謝します。

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