この地を見よ
いわきツアーのアルバム
関悦史
九月十五~十六日に、ツアーに参加していわき市に行ってきました。
津波被災地と、郷土芸能を見てもらうツアーで、「プロジェクト伝」(この名前の団体、ややこしいことに設立趣旨まで同じものが幾つもあるらしい)の山崎祐子さんらの企画したもの。
七月に第一回があり、四ッ谷龍さん、鴇田智哉さん、相子智恵さんは今回が二度目。私は初参加となります(第一回参加の宮本佳世乃さんは今回都合がつかず不参加)。また前回は民族建築学方面の人が何人もいたそうですが、今回は規模が小さくなって、俳句関係の人ばかり。
密度の濃い旅で、何をどう書いていいやらわからないものの、何も出さないのでは、福島まで行きながら、被災地が忘れられるのを拱手傍観することになりそうなので、写真を並べ、簡単な解説だけつけることにします(写真ではスケール感が全然伝わらないのですが)。
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正午頃にいわきの手前の泉駅に到着し、ここで山崎祐子さんら十数人と合流。タクシー二台に分乗して、まず三崎公園の望潮台へ。残暑が厳しい。
駐車場に降り立った参加者。
中をぐるぐる昇っていきます。
天辺に到着。
今はきれいな海。砂浜はあまりありません。アワビがごろごろいるそうですが、無免許では採れないとのこと。
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途中、土台だけの一角が。瓦礫類がないので、一見新築中にも見えますが、全部津波で流された跡。
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八幡神社。鳥居は替えられたので新品。画面左の民家は、震災当時の写真を見ると、津波に一階をぶち抜かれて中がぐしゃぐしゃになっていますが、修理できて現在も人が住んでいます。
八幡神社での参加者たち。
神社から海が見えます。この石段の三、四段目まで津波に浸かったらしい。
倒壊した家屋の屋根にわざわざ穴が開けられた写真というのも見せてもらいました。これは位牌を回収するためでした。
神社の前の通りには黒い土嚢がずらっと。
きれいな海。サーフィンの名所なのだそうで、震災後も、放射能も沈んだ瓦礫や行方不明者も気にすることなく興じているサーファーもいたとのこと。
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ついで塩屋崎灯台へ。
なぜか美空ひばりの歌碑があり、前に立つとセンサーが反応して歌が流れます。ここは湾の向きや地形が幸いして海際なのに津波をかぶらずに済んだとのこと。
存在感のあるひばり。
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そして薄磯集落の豊間中学校。卒業式が終わった直後に震災を迎えたという。
無惨に壊れたままのプール。
校庭には台地状となるほどの瓦礫が今でも積み上げられたまま。上に秋草が生い茂っています。
配電盤の上でなぜか埴輪が睥睨。社会科の資料か何かだったのでしょうか。
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今晩の祭の準備に余念がない公民館につきました。
ちょっと自由時間があったので、鴇田さん、相子さん、四ッ谷さんと四人で田んぼの真ん中にある円墳、甲塚古墳へ。
一歩進むごとにイナゴがバサバサとあちこちに飛び散るのを踏み分けつつ、わざわざこの周りを一周してきました。
私以外は皆ここも二回目で、先日朝日新聞に発表された鴇田さんの句《巣が蜘蛛のまはりへと波打つてゆく》の蜘蛛はここにいたものだそうです。
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公民館の右手にある大國魂神社。落雷したことがあるという由緒ある大杉。
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駐車場に猫がいましたが、あまり懐いてくれない。
この猫が公民館方面へ逃げてしまったので、何となく皆でついて行くと、庭にいたのはしゃがんで猫をじゃらしている四人の男……ではなく、猫と見えたのは絞められた地鶏で、その毛を毟っている四人の男。いきなり「不気味なもの」がぬっと現れた気分(上・公民館の写真、左の方参照)。
地鶏の羽はこの晩見る獅子頭の飾りになります。身のほうはこうなったとのこと。
(山崎祐子さん撮影)
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午後三時、「プロジェクト伝」の会長・鈴木利明さんのお宅着。
鈴木さんはもともと海沿いにあった旅館「えびすや」の主人なのですが、当人もご家族も無事だったものの旅館が駄目になってしまい、今回は自宅のほうでわれわれを迎えてくれました。いや、無事とはいっても三女が流される寸前だったということで、間一髪だったようですが(≫参照:福島民報記事)。
震災当日、鈴木さんは津波の押し寄せてくる旅館の三階に駆け上がり、その様子を撮影。そのときの写真がこの記事に使われています。
われわれも引き伸ばしたものを見ましたが、防波堤も何も水没しており、この画面の右下に立ってじかに見ていたのかと思うと肝が冷えます。
鈴木家の広間。奥の「ようこそ」の絵はお子さん作らしい。
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ここで早めの夕食と、宮司の山名隆弘さん(「プロジェクト伝」顧問)の郷土史講演があるのですが、山名さん到着まで間が空いたので、鈴木さんの案内で裏山の神社へ。街を見下ろしながら津波の話を聴いています。
食事前の鈴木さんらの挨拶は、何もしないとどんどん忘れられてしまうという状況下で復興にかける責任感が伝わってきて、これはマスコミに被害を黙殺された地に住む当方も他人事という気がしませんでした。
料理は焼サンマ、カツオ刺身、自家製ところてん、白和え、酢の物、粗汁、ごはん、スイカ等の郷土料理。ひとつひとつが実においしかった(写真撮るのを忘れています)。
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日が暮れて六時過ぎ、さっきの公民館まで車で引き返して、行燈をたどりつつ田圃の中を歩き、祭礼見学のため愛宕山長谷寺東福院へ。
基本的に地元民だけの祭で、旅行者が見る機会は普通ありません。
くじ引きがあるというので、みな山門まで戻り、女の子に手の甲にマジックで番号を書かれ、私と四ッ谷さんは生卵6個が当たりました。
四ッ谷さんは後でホテルで呑んで荷物を減らしたとのこと。鴇田さんは屑籠、ホイル等の雑貨を当てて、これは荷物になるので地元の人に上げてしまった。相子さんは何を当てたのだったか。
景品の交換中。
司会が番号を呼ぶ度、群集の中から誰かが喜んで出てくるわけですが、「お、どこそこの家の誰それが当たりました」という調子で、結構な人数がいるのに名前がわからない子供などが一人もいない。
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さて青年会による「三匹獅子舞」と「じゃんがら念仏踊り」の熱演ですが、闇の中なのでブレボケばかりでろくな写真がない。雰囲気を伝えるのに一枚だけ。これ、手前の大きな帽子のようなものの中には、なぜか一人ずつ女の子が入っていて、途中で退屈して脚がもぞもぞしていたりします。
見物の人々。
獅子舞のほうはのど元の締め付けもあって、ろくに息ができない難行らしい。こういう郷土芸能が生きているというのは、復興に向けて核となるべき地力の強さを感じさせる。逆に文化の薄弱な土地は一時栄えても、不況と連動してすぐ荒む。
見物していたら酒と杯が回ってきました。
実際の動きについてはどちらもYouTubeに上がっていたので、これが蒸し暑い、深い暗黒の中で照明を浴びながら、目の前で行われているところを想像してください。
≫三匹獅子舞 YouTube
≫じゃんがら念仏踊り YouTube
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踊りが終わると二メートルくらいある巨大松明が現れ、子供たちを先頭に順次火をつけて裏山へと突入。
(四ッ谷龍さん撮影)
相子さんが最初松明を持っていたのですが、女人禁制らしいとの声が伝わってきた。私が地元の人に訊いてみたら「“女”を捨てた人ならOKです」。
これを聞いて相子さんがただちに遠慮したので私と鴇田さん、四ッ谷さんで交代で持ちつつ山を一周。山上に神社とか何かがあるわけではなく、山道を登って反対側へ降りるだけのルートでした。持って歩いている間は「タイモー! タイモー!」と大声で叫ばなければならないのですが、この言葉の意味は、地元の人にも民俗学者にもわからないらしい。
松明から燃えさしの竹や松葉が飛び散って、山じゅう点々と火だらけ(よく火事にならないものだ)。陸橋のトンネルをくぐるときなど、前後からの輻射熱とけむさで息もできず、火災現場のようでした。
(四ッ谷龍さん撮影)
平地に出て松明を積み上げて大焚火にし、星だらけの星空を仰ぎつつ駐車場へ帰還。
(四ッ谷龍さん撮影)
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明けて十六日。
各自分散していたホテルから駅前に集まって、昨日の半分ほどの人数で山名宮司、鈴木さんの車に分乗。相子さんは仕事の都合で帰京。
なぜか飴屋に寄る。
飴屋の犬と四ッ谷さん。
このカメラで津波を撮ったんですよという鈴木さん。
車は四倉、久之浜方面へ。
福島第一原発に近づくことになりますが、放射線量的には大丈夫な範囲に留まるという。
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震災のとき、ここで二人の男性が立ち話をしていた。一人は海を向き、一人は海に背を向け。不意に海を向いていた一人が背後の土手に駆け上がった。海に背を向けていた一人は一瞬出遅れ、津波に流されたという。
壊れたままの堤防。
古い船を復元する計画があったが、命名する前に一切合財津波に呑まれた。今頃はアメリカに流れ着いているのではないかという。
修理が続く堤防。
神輿を担いだまま海に入る祭の様子。この辺あちこちに勇壮な祭がある。
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波立(はったち)薬師に到着。
祭の集合写真。「この人とこの人とこの人がまだ行方不明」と。
地元の人の解説を聴く。
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校庭に仮設された「商店街」へ。
「商店街」の中に災害展示スペースもあります。地元の人たちがその日に撮った写真の数々。
津波前の町の模型。
視察に来た谷垣総裁の色紙。
津波で壊滅した一帯にも点々と土蔵などは残った。
ボランティアグループが来て、励ましのつもりでその壁に花の絵を描きまくった。土蔵の所有者ら、地元の人たちは「落書き」だらけにされた壁を見て悲しんだという。
津波をかぶり炎上中の町の写真。テープで屋号が貼られているのが、いかにも生活圏という感じで痛ましい。
漂流物リスト。
「久野浜第一幼稚園」の写真。
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再び海沿いに出る。津波で壊滅した地帯に、これだけ残った稲荷。
稲荷の周りは流された民家の土台ばかりが残る。
稲荷も中はこの状態。
ギザギザになった堤防。
鈴木さんの手には行方不明者リストの記事。
帰りの車中で聞いた話。
震災発生の少し後、津波など全く来ないのに避難しろと警報ばかり鳴った日があったという。後で思えば、津波にかこつけて、原子炉爆発を告げ知らせていたのではなかったかとのこと。
昼前、いわき駅で解散。
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スフィンクスに難問を投げかけられたような、その難問が何なのかも判然としないまま抱えて帰ったような旅行でした。
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帰りのスーパーひたちで、鴇田さんは酒のつまみにいきなりホヤを購入。
車内販売でこんなものがあるとは知らなかった。
(了)
2 comments:
関さん、旅行記ありがとう。
いくつか、補足しておくね。
「今回の参加者は俳人ばかりのようだね」と私が泉駅で関さんに言ったのですが、間違いでした。実際には音楽学の小島先生、民俗学の松田先生ほか、俳句以外の方も参加されていましたね。
「ようこそ」の絵は、たしか山名宮司のお孫さんの作じゃなかったかな。
お寺のくじ引きで相子さんが当てたのは、キティちゃんの石鹸セットでしたよ。
問題の、ボランティアグループによる壁の絵ですが、絵を描くこと自体は了解を得ていたのでしょうね。しかしその絵が、風景にも建物にも合っていなくて、落書きにしか見えないですよね。それが悲しい。
参加者の一人としてとても面白く読みました。力作ごくろうさまでした。
関さん、いわき市ツアーの記録、ありがとうございます。夜になっても気温が下がらず、暑い二日間でした。付け加えますと、三匹獅子舞で女の子が被っていたのは、花笠とよんでいます。菅波のは大型で二つですが、東日本各地で見られる三匹獅子舞では、四人が四隅に立つことが多く、結界のような役割です。
いわき市の被災地を訪問し、文化財にふれるツアーをこれからも続けていきますので、またお出かけ下さい。
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