2012-09-09

凝り固まった文体(スタイル)を崩すために 『guca紙』を読む 西丘伊吹 

凝り固まった文体(スタイル)を崩すために
『guca紙』を読む

西丘伊吹



期間限定短詩系女子ユニット・guca(グーカ)が、このほど、8月31日をもって解散した。

gucaとは、太田ユリ・石原ユキオ・佐藤文香の3名からなるユニットであり、その活動はこちらに詳しい。解散ナイトと称されたイベントは、とても盛り上がったときく。2年間の活動の集大成として刊行された『guca紙』なる、guca 4冊目にして初の紙媒体の書籍(これまでの3冊は電子書籍)が、千駄木・往来堂書店などで販売中というので、往来堂好きの私もさっそく散策がてら買いに行った。ついでに立ち寄ったカフェ「檸檬の実」でランチを頂き、噂通りほんとうに美味しかった……というのは、余談でした。

いきなり結論から入ってしまうようだけれど、『guca紙』を通読してつよく感じたのが、gucaというのは、定型でものを語ることに対して、ほとんど潔癖といっていいほどの抵抗感をもっている人たちだということである。定型というのは、もちろん定型詩のことではない。何かを批評したり、感想を述べたり、思いを綴ったりするときの、おきまりの型。こういう感じで言っておけばいいだろうという無難さ。保守性。いってみれば、凝り固まった文体(スタイル)のことである。

他人事のような言い方をしてしまったけれど、つまるところ、『guca紙』について何か書こうとしたとき、私は文体に困ってしまったのである。いつものような硬い文体でgucaについて書いたなら、gucaはそれをかろやかに冷ややかに笑うだろう、という気がした。これは被害妄想ではないし、gucaの3人が実際に笑うだろう、ということでもない。そうではなくて、gucaというものがそういう思想性を持っている――定型的な生真面目さを、無内容な不真面目さと読み替えてしまうことができる眼光の鋭さとセンス――のを感じたのである。

つまり、『guca紙』を読んでしまった以上、これまでの文体で書くことはできないのです。ということで、今回はちょっと違った感じでいきたいのでした。



■佐藤文香「磯遊び」(俳句作品・写真)

太田ユリをモデルに、佐藤文香が撮った写真と俳句5句。表紙のバニーガールもそうだが、太田ユリはほんとうに絵になる。砂浜の上の裸足が、外反母趾なのがいい、と思う(もしそうでなかったら、作品として少女趣味すぎるだろう)。波打ち際で足を波に浸して無邪気っぽさを出しつつ、ちゃんと片手に靴をもっているところも、何かいい。不安さがある。

不安。佐藤の5句も、この2文字が似合う。安心していない。安定していない。欠如を通してしか、語りたい何かを語ることができない。

  純愛や首輪の猫に横切らる  佐藤文香

もしそれが野良猫だったら、シンパシイを感じたのだろうか。でも、その猫が首輪をしていることに、作者はかるい失望を覚える。わたし(わたしたち)の仲間ではない、と思う。横切る、という動詞に、首輪の猫が象徴するものとわたしたちのあいだの、ちいさな、でも決して埋められない断絶が込められている。


■太田ユリ「どこまでもあかるい午後」(短歌作品)

ふたりの女性が、特殊な状況下(?)で会っているシーンを思わせる連作5首。太田ユリの作品の手触りは、まるで麻のようにさらっとしている。何を描いても。

同じひとを愛しているね口腔に木のスプーンは馴れ馴れしくて  太田ユリ

木のスプーンが口に馴れ馴れしい、という感覚が特異的である。そして、その感覚がそのまま、「同じひとを愛している」という目の前の女性との関係性に置き換えられていく。この状況なら、金属の小さなスプーンくらいのほうが良かった、と作者は思っているのだろう。けれど、「馴れ馴れし」いという感覚自体が、ある種の親愛(反発を含んだとしても)となってしまっていることに、果たして作者は気付いているのだろうか。ばかばかしい暢気さのパフェ越しに会見を終え、「どこまでもあかるい午後」へ、ふたりは還っていく。


■石原ユキオ「憑依俳句集」(俳句作品)

腐女子の章/事務員の章/家庭教師の章/ショップ店員の章/S嬢の章、として各章6~7句からなる俳句作品集。それぞれの目線と文体で「語られる」俳句。事務員の章には顔文字とギャル文字(小文字)が使われ、ショップ店員の章では無季の自由律俳句があるなど、それぞれに特徴が与えられている。また、各章でフォントも異なっており、文字の外見をも含めた文体への意識が見てとれる。決まりきったスタイルからの逸脱は、3人の中でも石原ユキオが特に意図しているように思う(それは、本誌所収の「ヒド俳レビュー」という石原執筆のコラムにもよく現れている)。

  マネキンを回れ右  石原ユキオ(「ショップ店員の章」)

  先々代社長像あり水を打つ!  同(「事務員の章」)

  ひとを吊るほそきちからや星冴ゆる  同(「S嬢の章」)

  おとなりの猫にバッタをあげている  同(「家庭教師の章」)

  ノルマ届かずあのへんが天の川  同(「ショップ店員の章」)

とはいえ、この俳句集はその名の通り「憑依俳句集」なわけで、石原は何者かに憑依しているに過ぎない。つまり、あくまで石原自身の「本音」は封じられている――と、いうふうに見える(実際にそうかは別として)。どうしてそう見えてしまうのかというと、直後にある、穂村弘氏による石原ユキオ論のためである。


■穂村弘「愛の自爆テロ」

この小論で穂村弘氏は、石原ユキオの短歌を中心に論じている(石原は俳句だけでなく、短歌や詩も作っている)。

引用された5首のうち4首は、何重かの意味で世間からは歓迎されないであろう関係(恋愛、といっていいのかすらわからない)がうたわれている。穂村氏は、その関係性における〈私〉の一見「異様」な在り方(=「狂った純粋さ」)が、「女性の主体性を阻害する関係及びそれを強いるような社会への批評になっている」と読み解いていく。

私が5首を読んで感じたのは、作中主体=〈私〉の、異様なまでのものわかりのよさである。

「みゆきです」の歌では、「切羽詰まれば」その名前を呼ぶことを相手に許し、「帰したくないは」の歌では、相手の意図を言葉でたしかめることなく“汲み取って”その意図を叶えている。「費用対効果について」の歌では、本来は相手が自分で考えるべきあれこれを敢えて説明してあげているのだし、「いろいろとごめんね」の歌では、「おそらく〈私〉にはほとんど落ち度はなかった」(穂村氏)にもかかわらず、まず相手に謝ることで歌をはじめている。

この〈私〉の不自然なまでのものわかりのよさは、相手への愛情に端を発しているだけではないのだろう。「女性の主体性を阻害する社会への眼差し」(穂村氏)とはその通りで、おそらく〈私〉は、ものわかりのよい女性を演じ続けるというまさにそのことを通して、逆説的に、ものわかりのよい(=都合の良い)女性であることを要求する相手(あるいは、社会)の姿を浮き彫りにさせている。告発、というと言葉がつよすぎるようだが、それでもこれは、おそらくある種の告発を含んでいる。

しかし、穂村氏も述べるように、だからといって〈私〉は相手を愛していないわけではない。だからこそというべきか、最終的に、その関係は穂村氏のこの一言に収斂されていく。「万一これが愛だとしたら、その不毛さに耐えられない」。

穂村氏の好もしい小論は、最後に「いろいろとごめんね」の歌を引きながら、〈私〉の夢を決定的に打ち砕くという手法をもって終わる。これは、誰かにとって都合の良い女性であり続けた〈私〉に対して、都合の良くない=ほんとうのことを語る存在として現れ、対峙した結果の結末である。

だから、この小論は、ものすごく愛のこもった小論だと思うのである。



『guca紙』にはこのほか、詩/平田俊子、俳句/神野紗希・松本てふこ、短歌/山田航・野口あや子、太田ユリのエッセイ「愛だの、恋だの。」、先にも挙げた石原ユキオの「ヒド俳レビュー」(ヒドい俳句を独自の解釈と格付けでレビューするコラム)、そして『guca』1号で特集された雪舟えま氏が占い師として(!)登場する「2012下半期占い」などが所収されている。可愛らしいデザイン(日比藍子)も手伝って、何度もめくってしまう。

印象に残った箇所をひとつだけ挙げると、太田ユリの「愛だの、恋だの。」のなかで、太田が失恋して後悔にさいなまれていたときに、知り合って日の浅い年上の女性に言われたという一言。「ぜんぶ地球の思い出だから」。……地球の思い出!視点が一気にズームアウトする、この感覚。

ところで、最初にきょうは文体を崩して云々、と言っていたのに、結局いつもとほとんど変わらない文体になってしまった。凝り固まった文体、というのは、なかなか治らないものである、と痛感。でも、そんなひとたちがいるからこそ、きっと2年間も活動して、私たちを楽しませてくれたんですよね? guca先生、ありがとうございました。

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