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さて、今回も第三句集『骰子』の「湯呑」時代(昭和32年から54年)から。今回鑑賞した句は、昭和40年代から50年代にかけての作品だと思われます。〈詣できし墓の二つを思ひをり〉は54年9月、法然院に詣でた際の句。そのときのことを爽波は次のように書き留めています。
…昭和十七年秋、京大に入ってすぐ「蜻蛉(せいれい)会」に入れて頂き、あと松尾いはほ氏には随分とお世話になった。医学者としても大変偉い人であった由だが、天真爛漫そのもののいはほ氏の人格には啓発されるところ大なるものがあった。そしてその「蜻蛉会」を通じて幸いにもミューラー初子さんと相識るようになったのである。百合の前ひろびろとしてぬかるめり 『骰子』(以下同)
そのいはほ、初子の墓がここ法然院に隣り合って建っている。
私にはこのお二人の墓に時間をかけてゆっくりと詣ることが即ち、今日で三十回忌を迎える虚子先生の在りし日の温顔をまのあたりとして、心の奥深くから亡き師を偲ぶにこよなき場所なのである。思えば虚子、立子の後につき従ってこの法然院の山門をいくたび潜ったことであろうか。先生はこの法然院が格別お好きで、初子邸で寛がれて、あと一と句会でもという事になると決まってここ法然院へ足を向けられるのが常であった。
東山から吹き下ろす風が大変に冷たい今日であったが、山門を入って緩い石畳の上には真赤な椿が一面に落ちていて、これも亦、いかにも今日の日にふさわしい眺めである。
千鶴子持参の供華、お線香、お供え物を六人で手分けしてお二人の墓にお供えして心ゆくまでゆっくりとお墓詣り。
「ミューラー初子」と墓碑に刻まれた虚子先生の字がつくづくと懐かしい。
いつ迄も墓前を立ち去り難い思いではあったが、あと四十年ぶりで初子邸を訪れる段取りになっているので、墓に名残りを惜しみつつ法然院を後にする。…(波多野爽波「俳人日記」)
鑑賞用に植えられるものの外、切花として人気の高いカサブランカなど、様々な種類のある百合だが、掲句の景には、野生の大柄な百合が似つかわしい。中七下五の描写は簡素ながら鮮やかで、その広々とした空間を支配する百合の存在感を際立たせている。
ひたむきの顔の来るなり柿の秋
秋の代表的な果物である柿。「柿の秋」というと、柿の枝に豊かに実の付いた懐かしい景を思う。この「ひたむきの顔」、知人か否か、年中こういう顔なのか謎の残る所だが、確かにこういう景を見たことがあるような気にさせられる。非常に印象に残る句だ。
山吹の花より蠅のくる畳
各地の山野に自生する山吹。晩春から黄金色の五弁の花を咲かせ、野の表情をぱっと明るいものにする。その辺りを飛んでいた蠅が開け放たれた家の中までもやってくると、山吹の野と家の畳とが一つながりの景となり、人の暮らしが自然の中に溶け込んでゆくような。
茶畠をはさみて涸るる池二つ
茶摘みの時期は晩春から夏にかけて、冬の茶畠には茶摘みの時期ほどの鮮やかさはないが、次の収穫に向けて丸く刈り整えられた様子はなかなか趣深い。茶畠とそれを挟む二つの涸れ池とが構成する広々とした景が、多くの言葉を尽くすことなく描き出されている。
水の中まで竹の葉の散り敷ける
初夏に新葉が生じ始めると、常緑樹と同じく竹も古葉を落とし始める。散り敷くほどだから、かなりの本数だ。池か湖か、水の中までも散った竹の葉がよく見え、水の透明度や明るさも実感される。「まで」の働きによって、水の周りまでもくっきり見えてくる。
宿酔ながらに厄を落しけり
厄落としとは、厄年の人が厄を落とすためにするまじないや、神社で薪を火にくべたりすること。このような、神事の類に生活感のある人間の描写を配する句は、後年の代表作〈大金をもちて茅の輪をくぐりけり〉に通じる所があり、爽波の創作上の指向が窺われる。
詣できし墓の二つを思ひをり
「いはほ・初子の墓・法然院にあり」と前書あり。松尾いはほとミューラー初子はいずれも爽波にとってホトトギスの先輩。爽波は少年時代から月々墓参をしており、掲句からも、墓と亡き人とが心の中でしっかりと結び付き、墓参を大事にしていたことが窺われる。
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