【週俳10月の俳句を読む】
無機物と不在の官能
関悦史
テレビ忌のひかりの昼の鎖骨かな 忌日くん
テレビ亡き世界でテレビを懐旧する。忌日が特定されているので、全放送局が発信を終えた日なのかもしれない。さらに「忌」と付けば擬人化だ。ただの機械の消滅=不在が奇妙な霊性を帯び、その霊性が世界の「ひかり」を微妙に異様なものへと変える。「ひかりの昼」となれば、テレビどころか人すらいなくなっている気配が濃厚だが、その「ひかり」を浴びているのは鎖骨なのだ。人格なき人体の部品が、攝津幸彦の“階段を濡らす昼”のごとき無機的なままにセクシャリティを帯びた「ひかりの昼」と感応しあう様は、文明の終焉を思わせる「テレビ忌」に包まれて、冷やかに艶めかしい。生体がそのまま清潔な廃墟美たりうる時空。
こひびとの数式光るあかるさ忌
そうした気配は他の句にも浸透しているようだ。「あかるさ」が死んでいるにも関わらず、この「こひびとの数式」は闇の中に灯っているとばかりも見えず、幽明どちらともつかない領域を作りだしている。無意識には否定形がないためで、仮に否定されていようが提示されてしまった「あかるさ」は最早消しようがない。
この「数式」が恋人が書き残した数式か、解析されつくした恋人のゲノムのようなものを指すのかは不明であるのせよ、この「数式」が「こひびと」そのものを代行する、それ自体としてセクシャルな何かに変容を遂げたものであることには疑いがなく、そこから恋人の不在の気配が立ち上がる。この恋人は「あかるさ」が死滅する以前と以後で隔てられた、別の次元に実在しているのかもしれない。湿った情緒と無縁のさびしさが茫漠たる光そのもののように遍満する。
おほぞらの動脈つかむくびれの忌
動脈を持たされたことで「おほぞら」もまた実体のないまま不思議な生気を帯びる。「くびれ」は「動脈」と呼応することで、なめらかに引き締まったウエストを連想させるので、「くびれ忌」において起こった出来事とは単に寸胴の人間ばかりになったといったようなことではなく、ウエストと「おほぞら」とが同一次元の、物質ならぬ物質に変化するような出来事であったことがことが推測される。滅び、変容を遂げたのは女体のみであるのかもしれない。だがその生の証しであるような「動脈」を、語り手は「つかむ」ことができる。この越境と接触が果たされるのが「くびれの忌」ただ一日だけのことなのではないかとの可能性に思い至るとき、この「つかむ」は牽牛と織女のそれよりも哀切な逢瀬となる。
をととひの人体並ぶ欠伸の忌
人体そのものも「おととい来やがれ」とばかりに無用の遺物と化してしまったようだ。これでは欠伸の忌というよりは人体忌ではないかと一時思いはするものの、ここには「人体」とは「欠伸」であるという考察による大胆な提喩が潜んでいる。人体とは眠気がもたらす不随意的な深呼吸に過ぎない。この並んでいる人体が生きているとは到底見えず、欠伸の忌以降の世界では人は人体を手放してしまったようだ。だが句に漂う倦怠感からすると、成仏したとか昇華を遂げたとかいった事態からは程遠そうで、“彼(ら)”は中有で何かを待たされているようでもある。その何かも「欠伸の忌」以降には、永遠に到来しそうにない。ベケットの抽象化の進んだ戯曲にも似た、消尽した世界の奇妙な平穏が描かれている。
真夜中の書店の床に団栗よ
どちらも意外なところに意外な物があり、それが可憐でもあるという、よく見かける形の句だが、コスモスに咲かれたアスファルトは作者の自己愛のような疎ましい情緒からは離れた風通しのよさの中に広がっており、団栗も真夜中の書店に満ちた、ものたちの静かにざわめくような気配を賦活している。
平らなるところなかりし花野かな 草深昌子
言われてみればその通りという着眼。その着眼を帯びて花野の実在感と生命感が立ち上がってくるという、力みのない写生的佳句。こういう句の怪しみと魅力は、明晰な認識が、語り手が「花野」に浸透されることとイコールになるところから来る。
第285号 2012年10月7日
■忌日くん をととひの人体 10句 ≫読む
第286号 2012年10月14日
■佐藤りえ 愉快な人 10句 ≫読む
■手銭 誠 晩秋の机 10句 ≫読む
第287号 2012年10月21日
■草深昌子 露の間 10句 ≫読む
第288号 2012年10月28日
■飯島士朗 耳の穴 10句 ≫読む
第284号 2012年9月30日
■西原天気 俳風昆虫記〔夏の思ひ出篇〕 99句 ≫読む
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