2012-11-18

朝の爽波 42 小川春休



小川春休





42



さて、今回は第三句集『骰子』の「昭和五十六年」から。今回鑑賞した句は、昭和56年の冬から春にかけての句。2月には立風書房より『鑑賞現代俳句全集 第十一巻』が刊行され、友岡子郷による懇切な鑑賞が掲載されています。3月には待望の第二句集『湯呑』を現代俳句協会より刊行しますが、同月、昭和22年以来の交友であった赤尾兜子が世を去っています。

塚の名を聞いて忘れて避寒かな  『骰子』(以下同)

寒気を避けて、暖かい海岸や温泉地などへ行く避寒。観光地らしく、何か謂れのある塚がある。せっかくの説明を聞いてはいるが、右の耳から左の耳へ、その直後には頭から抜けてしまっている。旅心は既に温泉や夜の膳のことに占められ、浮かれ、弾んでいるのだ。

焼肴煮肴うまき寒椿


焼き肴に続いて煮魚までも平らげる、当然酒の席であろう。その感想も「うまき」と率直なこと極まりなく、畏まった料亭などよりも、居酒屋で心惹かれた物を次々頼んでいるような印象を覚える。冬の寒さにきりりと咲く寒椿も心憎く、何処のどういう店か聞きたくなる。

重き頭をもちてあつまる磯遊び

磯遊びは、古くは旧暦三月三日の大潮の頃、磯辺で一日を過ごす風習だったが、今では海辺の行楽をも指す。「重き頭」とは体に対する頭のバランスのことか。特定の誰かではなく人間全般のことのようだが、どうも海辺に不似合いな生き物という印象で、そこが可笑しい。

種袋沈みて少し窮屈に


発芽を促すため、稲の籾種を水や温水などに浸す。かつては俵に入れた籾種をそのまま井戸や汲み水に浸してから、苗代に蒔いた。掲句では、それほど広くない水面に浸した種袋が、水を吸って重たく膨らみ、底の方へと沈んでしまっている。種袋の質感の見えてくる句だ。

波音の大王岬の蚊と生れ

大王岬(だいおうざき)は、三重県志摩市にある岬。明治期から多くの画家が訪れた地でもある。下五の蚊に成り代わったかの表現が、大王岬の波音や風、大海の広がりを感じさせ、その只中に生まれた蚊の生命力をも生き生きと伝える。大景にして躍動感のある句だ。

燈台に大ぜい上り蘖ゆる

灯台に上って行く大勢の人を捉える視界は、岬や海原をも容れて壮大。その視界は、木の切株や根元に生じた小さな蘖(ひこばえ)をも捉える。見るということは、ただ凝視するばかりでなく、拘りを取り去り、より大きく心を開いて対象に対することと気付かされる句。

干潟より駅の時計の見ゆるかな


日差しの加減であろうか、春は潮の色も次第に明るくなってくる。干満の差も大きくなり、干潮時には広々とした干潟が現れる。干潟から駅の時計が見えるとしか述べていないが、その奥に駅と干潟との距離を土台とした広がりと、春ならではの明るさを感じる。

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