【不定期連載】 牛の歳時記
第13回 初雪
鈴木牛後
初雪 その冬、初めて降る雪のこと。賞美する意の籠る語である。(角川俳句大歳時記)当地(北海道北部)の今年の初雪は11月15日。平年は10月20日頃だからとても遅かった。観測史上もっとも遅い記録だったそうだ。
雪は遅いにこしたことはないのだが、あまり遅いとこの冬の天候が心配になってくる。大雪になるのではないか、厳冬が来るのではないか、と。季節はいつも通り巡ってくるのがいちばん安心する。
先日、読売新聞に相子智恵さんのコラムが載っていた。札幌のエッセイスト、北大路公子さんの、「【悲しいお知らせ】初雪です」というツイートを読んで、「「初雪は喜ぶべきもの」という価値観は、俳人特有の見方に過ぎないと気づき、ハッと」したというのである。
私は不勉強のため、初雪の本意が「初雪は愛でるもの」であることを知らなかった。確かに、冒頭に挙げた角川俳句大歳時記には、はっきりと「賞美する意」と書いてある。他の歳時記をめくって見ると、講談社日本大歳時記には、
うしろより初雪降れり夜の町 前田普羅
の鑑賞として、「美しいもの、こころ華やぐものという初雪の観念を破って、肌にふれるきびしい風土感をやさしい情念で包み込んだ作。(飯田龍太)」と記されている。
この句は普羅が新聞記者として富山に赴任した翌年の作ということで、冬を目前にした感慨が込められているのだろう。
初雪への思いは、普羅の住んでいた富山のような雪国とそうでないところでは、かなり違うのは想像に難くない。先の相子さんのコラムには、「私は長野県出身だが、雪の少ない南信州育ちなので、初雪にはワクワクしたほうだ。」とあるが、北海道でも大半の子どもはワクワクしているだろう。実際今年の初雪の日にも、小学生の男の子たちが大きな雪玉を抱えて登校しているのを見た。
私は、と思い返してみると、初雪に心躍らせた記憶はまったくないが、おそらく子どもの頃は、今のこどもたちよりもずっと初雪にはしゃいでいたのではないかと思う。それが、成長してからの、雪にうんざりさせられた記憶ですっかり上書きされてしまったのだろう。
現在の私は初雪にどんな感慨を持っているのだろうか。たとえてみれば、とても厳しくてみなに怖れられている体育の先生の授業の前の予鈴。その予鈴は、いつ鳴るか、そして何回鳴るかわからない。1回目の予鈴で生徒たちはかなり緊張し、2度、3度と鳴るにつれて、いつ先生が来てもいいように隊列を整えて待つようになる。そんな感じか。
北国の生活に欠かせないのは冬支度。一般の家庭でも、庭木の冬囲いをしたり、落雪で割れる怖れのある窓に板を張り付けたり、自動車のタイヤやワイパーを冬用に取り替えたりする。酪農家である我が家では、牛の糞や尿を牧草地に散布して貯留施設を空にし、また、牧柵が雪で切れないようにすべて地面に下ろすというような仕事をする。放牧地に出しっぱなしにしている育成牛を牛舎に戻すのもこの頃である。
これらの仕事は根雪になったらもうできないので、初雪から根雪の間の天候を見ながら少しずつ進めてゆく。初雪は、「さあ、もうすぐ冬だよ。急いで冬支度をしなさいよ」という天からの知らせなのである。
それとともに、初雪を愛でる気持ちももちろんある。末枯の世界を一夜にして塗り替える初雪。その清らかさ愛おしいのだ。北国の人間はおそらく誰でも、初雪にそのような矛盾した心性を抱いているように思う。
牛の背に初雪消ゆる黒さかな 牛後
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