【落選展2012を読む】
落選展よ水戸橋よ(其の三)
島田牙城
水戸橋といふ言葉から、人は何を想像するのだらう。
前回、水戸橋が水戸市にもないと書いたが、実は水戸市に水戸大橋はある。
ただ、水戸橋から想像できるものと、水戸大橋から想像するものとは違ふ。うん、大いに違ふ。
僕の場合だけれど、水戸橋のたもとには黄門様も歩いてゐるし、梅の花も咲いてゐる。歴史好きの人なら天狗党の暗闘まで思ひ浮かべるかもしれない。その橋が水戸でなく東京の小菅にあると知つてゐてもだ。
反面、水戸大橋にその情緒があるか。何川に掛かる橋かは知らぬが、だだつぴろい河原のゴミを引つ掛けて頽れる枯蘆原を眼下に、ジーゼルの黒い煙を吐いて走り抜けるダンプやトラックの群が見えてくるばかりだ。
さういふ意味で、水戸に水戸大橋があつたとしても、水戸橋があることにはならないのであつた。
(あ、僕はどつちがいいね、なんて書いてないよ。水戸大橋こそ俳句に書きたいといふ人のはうが、俳人としてはマトモであるといふ気もするしね)
では続ける。
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わー、どうしよう、引く句がない。
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村越敦さんといふのは、相当俳句を読んでゐる人なんだらうなとは思ふ。
でもさあ、五十句すべてが物欲しげな顔をしてゐるんだよ。
おいしいところをちよいと摘まんで見せてくれるから、句会なんかではすごく人気を得るんだらうけれど、目が覚めたら忘れてゐるよね、といふ句ばかりなんだよ。
抽象的な言ひ方になるけれど、言葉に体重が乗つてゐないといふことかなあ。
〈やがて降る雨雪のこと薬喰〉の〈やがて→こと〉、
〈木枯やくちびる荒れて街あれて〉の下七五、
〈屏風絵の中や音なく笑ふなり〉の〈音なく〉。
俳句つてそんなところには手柄は無いんだよ。
もつと〈物〉とがちんこ勝負してほしいなあ、期待の若手なんだもの。
福田若之さんの模型の丘の恋愛を思ひ出してしまつたぞ。模型の丘の俳句。いや、ごめん。
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念珠屋の前のバス停風光る 利普苑るな
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具体的にしつかりと五・七・五に書ききらうとする意識が見えて、好感が持てる五十句だね。
念珠屋といふのが一般的な言葉なのかどうかは知らないけれど、お数珠を売る店なのだらう。最近ではリラクゼイションとかでお香もブームらしいし、お数珠にしてもファッション感覚溢れるものがあるのかもしれない。
仏具屋といふのとは違ひ、若者を引きつける語感がある。人気スポットなのかな。さう思はせるのが、「風光る」といふ季語の力だね。
全体はすごくぎこちないし、「や」の多用も気になるのだけれど、このまま進めばいいんじやないかなあ。
家鴨住む弁財天堂秋の声 利普苑るな
も「秋の声」で助かつた(助かると書いたけれど、上の十二音が陳腐だといふことは、解つてゐるよね。それを救ふ季語の力といふことだ)。
仮の名のままに猫飼ひ冬隣 利普苑るな
夕凪や釣人のふりしてゐたる 同
かういふ作り方をしてゐる人へは、赤の他人の僕が「ここが駄目なんだよ」なんて言ふ必要がないんだ。必ず自分で気付くことのできる句作りをしていらつしやるだから。
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五月雨や犬の耳垢耳の中 藤 幹子
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には予期せぬ出会ひの面白さがある。
たとへば恋愛、かういふ男性が理想よつて、理想の男を夢想して過ごす日々つて虚しいのであつて、ある日ある時、わたしはなんで今こんな男とお酒飲んでるんだらう、時間の無駄なんだけど、なんていふ程度の男のことが、翌朝忘れられなくなつてゐたりするんじやないかなあ。そして一生を無駄な時間の延長として過ごす。そんな恋愛。うん、そんな俳句。
ぬれそぼつ犬の耳を見れば、つひつひ思ひ出してしまふやうな句、だよね。
今回の50句はさうじやない俳句が多かつたやうだけど、期待してゐます。
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くさぐさに名付けいづれも枯さうび すずきみのる
昼ま逢ふ人初夢のなかに笑む 同
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うん、最後の二句。それまでの四十八句はこのための助走だつたのかいなと思ふ。
あまりきよろきよろしないで一点凝視で句を作る人なのだらう。ただし、
はつゆきを競馬新聞にて避ける すずきみのる
など、事の面白さで終はつてゐて、「競馬新聞」とあるにもかかはらず、競馬新聞の実体が浮かんでこない。「はつゆき」の既成のうつくしさをひねらうとする意志が見えてしまふからなのだらう。その意志は嫌みになる。
掲出の二句にはそれがない。理屈を捏ねると「エリザベス」だとか「クイーン」だとか、中には日本名もあるだらうが、いろいろに美しさうな名付けをしたところで、枯れてしまへば枯さうびさ、といふことだけれど、その理屈を忌避する潔さ、スピード感がこの句にはある。「初夢」の句もしかり。
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啓蟄や乳吸ふ丸き後頭部 藤尾ゆげ
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以下、〈佛壇を開くと連凧のけはひ〉〈春の虎檻ごと消えてから臭ふ〉〈受験日の吊り目の聖ジョセフ像〉〈鰆の字大きく書きてバスガイド〉〈朧夜に引き抜く不在連絡票〉と、出だしの十句で六句に○を打つ。
期待。
外れ。
なんでさうなつてしまふの、といふほどの落差ではないですか、ゆげさーーーん。
〈夏の底剥製は眼を開けてをり〉、〈夏の底〉じやないでしよ。
〈蟷螂がゐる梵鐘を待つごとく〉、音は待てても、〈梵鐘〉は待てないでしよ。
〈ローマ字のどれにも冬の鳩のゐて〉つて、一人よがりでしよ。
〈正月を殴つて逃げてしまひたき〉つて、僕にはどうでもいいことだし。
勿体無いんだよねー、かういふ人。いい句を書ける人が何かの拍子に色気を出してしまふといふことだらうか。
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冷えた手を載せれば掴む手であつた 佐藤文香
口元や雪は枯野へ細密に 同
谷に日のあたる時間や春の鳥 同
川までのてのひらに雛あたたまり 同
春の夕日は君の眉間を裏から突く 同
花冷の肺は吐息をほしがりぬ 同
たんぽぽを活けて一部屋だけの家 同
さへづりに濡れてはじめの樹へ戻る 同
天やはらかく暮れたり君のこゑほしき 同
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大きな○を打つた九句。句集を出したあと、一度自分をぶつこはさうとしてゐた句づくりから、もう一歩抜け出したのかな。
〈さへづりに濡れてはじめの樹へ戻る〉は、この作者が獲得したさはさはした情感の世界を思はせるよね。ねちねちしてゐないけれどきちんと女であるといふ世界観。この句は、少なくとも昭和半ばまでの男には書けないんだよ。「はじめの樹」といふ把握が、文香俳句の地平をさらに広げたんではないかい、と思ふ。さうか、神戸やら松山やらの、瀬戸内女の俳句つてことかなあ。
〈ふきのたう愛の湿度のととのほる〉とかさあ、二重、いや、三重バッテンの句もある(何が「愛の湿度」だよ。読み返して、自分で恰好悪いでしよ。「ととのほる」なんてわざわざ使ふあたりも、自分で辟易でしよ)し、そもそもタイトルにした〈葉桜や丘に見えたところに来てゐる〉が頂けないといふのもあるのだけれど、どんどんおやんなさい、と書いておかうか。
さうさう、タイトルの句、〈丘に見えたところに来てゐる〉はいいんだよ。なして、この季語なの? これでは、「青い山脈」の女学生だね。
(つづく)
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