俳句史的な事件
照井翠句集『龍宮』を読む
小野裕三
震災ということにきわめて直接的に向き合った、重い一冊である。この句集を読んで僕は、原民喜の原爆詩などを想像したのだけれど(作者によるあとがきにも「戦争よりひどいと呟きながら歩き廻る老人。」といった描写がある)、全編になんとも言えない生々しい匂いのようなものが漂っている。句集にしてこのような感触はかなり稀有のことと思う。
朧夜の首が体を呼んでをり
釜石はコルカタ 指より太き蠅
水引のどこまでも手を伸ばしくる
照井さんは、釜石在住。そしてその場所であの震災を経験した。その照井さんとは、ある縁で十年くらい前から僕は手紙やメールのやり取りを続けている。そして震災の直後、僕はおそるおそる彼女にメールを送った。返信が返ってきたのを見て少し安堵したのを覚えている。しかしそこに書かれていたことは、彼女のアパートの前まで全部津波に流されたといったような、東京からは実感しづらい過酷な現実だった。その後、夏くらいに彼女から葉書を貰った。彼女は学校の先生なのだけれど、親を亡くした生徒たちがそれでも頑張って勉強しています、というようなことが書いてあった。僕自身も子を持つ親の一人でもあるので、この一文は身に染みた。
震災後の時期に、今回の地震や津波のことを俳句に詠むべきではないかという思いが僕の中になかったわけでもないのだが、そんな照井さんからのメールや手紙を貰ううちに、僕ごときがそんなことを詠むのはおこがましい行為である、と考え、結局地震や津波に関する俳句を僕は一句も作らなかった。これからも作ることはないだろう(念のため言い添えておくと、そのことと原発問題について発言することはまったく次元の違う別の問題だ)。
もちろん、冷静に見るならこの照井さんの句群が、俳句史の中でまったく初めての独自な存在である、ということはないはずだ。大地震や津波、さらには戦争といった大きな悲劇は、これまでの俳句史の中で幾度も起きてきた。そしてそのことに俳句も向かい合ってきた。それらの過去の試みを決して軽視するわけにはいかない。だから、この照井さんの句群は、決して俳句史の中で特別な位置を占めるものではない、とまずは言うべきだ。
だが、とも思う。それでも、この句群は、照井さんの中で特別な存在として大きな位置を占める。そして、そのことで充分ではないか、とも思う。ある一人の俳人の魂が、大きく揺さぶられた記録。俳句史にとっては初めての出来事ではないかも知れないが、照井翠という俳人の魂にとっては初めての出来事であった。そして、実はそのことこそが俳句史的な事件のひとつなのだ。
黒々と津波は翼広げけり
いい人ほど虹を渡つていつた
冒頭で、原民喜という名前に触れた。原民喜の原爆詩は、それまでのモダニズム詩の中で練成されてきた彼の言葉が支えた。結果として原民喜の詩は、原爆という史上空前の悲劇を恐ろしいほどの端正な言葉で活写した。そして、その図式に少しばかり重なるのだが、照井さんはこれまで海外詠という、俳句の従来的な枠を越えた言葉の練成を重ねてきた。その彼女の言葉は、原民喜のモダニズムの言葉が原爆を捉えたのに似て、震災という大きな悲劇をしっかりと受け止めた。それはあえて言えば、海外という〝ここでない場所〟にも少し似た、冥界という〝ここでない場所〟での俳句だったのかも知れない。
亡き娘らの真夜来て遊ぶ雛まつり
虹忽とうねり龍宮行きの舟
繰り返すが、大きな悲劇を詠んだ俳句なら俳句史上に他にも例はある。だからそのこと自体は俳句史的な特別な事件ではない。しかし、照井翠という俳人の魂と、震災という大きな悲劇との出会いは間違いなく俳句史的な事件である。なぜなら、海外詠で練成されてきた特別な言葉が、あの大きな悲劇と出会ったからだ。その証拠に、この句集は今までどの句集でも見たことのないような、特別な匂いに充ち充ちている。
だとすればやはり、この一冊は俳句史的に特別な事件なのだ。
2012-12-16
【句集を読む】俳句史的な事件 照井翠『龍宮』を読む 小野裕三
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