【週俳11月の俳句を読む】
映画なら松田優作
沼田真知栖
左手 森賀まり
顔ちがふやうにも見えて芒原
芒原はみな同じように見える。違うのは存在する地形や周りの風景であって、芒原そのものには個性がないとおもっていたが人間の顔がひとりひとり違うように芒原も違うのだ。
人間の顔には目、耳がふたつ、口、鼻がひとつだがそれぞれが雄弁に個性を語り人間違いすることはあっても同じものはない。芒原もよく見ればそのものがそうなのだ。
秋袷背中に指の届かざる
秋袷を着たときに背中のあるところに指が届かない。洋装なら問題ないところだが和服の場合、帯を締めるのに微妙なバランスが必要なのだろう。今年の場合厳しい残暑へのいらつきもあるだろうか。
自画像の左手隠れ落し水
この句は十分に理解したわけではない。自画像は俳句の読み方としては作者自身となるだろうが客観的に詠まれているので、ある画家の自画像だろう。肩から上の自画像が多いが手が見えていて左手は隠れている。高原にある美術館にそんな自画像があり外へ出ると水が落とされた田んぼが広がる風景を勝手に想像した。
●
石原ユキオ 狙撃
狙撃というタイトルからして穏やかでなく、しかも猟師ではない。鼬という言葉も敵の符丁であろう。要するにスナイパー(狙撃兵)の世界として俳句は作られている。そしてそれは今でも世界で続いている内戦ではなく小説や映画の世界。
私自身が分かるのは小説なら大藪春彦、映画なら松田優作、探偵物語ではなく遊戯シリーズがぴったりする。
いつもこのように俳句を作っているわけではなく10句という枠の中での表現なのだろうか。いくつかの句は独立して読める。
浴槽に手足かさなる霜夜かな
西洋風呂に身を横たえたとき湯の中に伸びる足がありそれに重なる手が見える。外は寒く霜が降りる音がちりちりと聞こえるようだ。
狐火に微笑み方を教へらる
彼方に見える狐火は恐ろしいものだが神秘的でありよく見ると泣いているよりは笑っているようだ。自身の表情も次第に和み怖いものではなく友達のようになっていくのが不思議だ。
トランシーバーまづ咳を伝へけり
トランシーバーのスイッチを入れザーザーという音の中から咳き音がまず聞こえてきた。向こうもきっと寒いのだ。言葉よりもつよくはっきりとそのことが伝わる。
もっともこの三句もスナイパーを想像した方が面白い。
●
谷 雅子 雨の須賀川
中通りもみぢ透けゆく雨となる
タイトルとこの一句目を読んで震災関係の句かと思ったが松明あかしが祭の名であった。こちらをタイトルに入れて貰った方が迷いがないような気がする。
松明あかし荒天が習ひよと
松明業火須賀川時雨巻上げて
松明の腹が火を噴く冬の雨
毎年雨にたたられる祭なのであろうか。良く雰囲気を伝えている。
祭の名が季語になり、松明は季語ではないので季語を加えなければならないのが少し煩わしいか。こんな場合、祭全体を季語として一句ずつには季語を気にせず詠んでも良いのかも知れない。
●
中嶋いづる 秋熟す
蛇穴に愚直にのびる野鍛冶の火
後ろから自転車枯れてくる真昼
運河に沿う煉瓦のうねり霧が這う
現代俳句の基礎が虚子であってその基本が客観写生とすればここではより強い主観的な表現がされていると言えようか。もちろん虚子の句にも主観的表現は存在するのであくまでもバランスの問題だ。
客観では作者の個性はどこへ行くのか。みな同じようになってはしまわないか。
主観的な表現が比喩となり幅広い写生の句と読めると思う。自己表現のためのひとつの方法として注目する。
●
矢野錆助 緑青日乗
浮かれ蝶見失う
鳩の目ん玉まで西日
銚子倒れた空っぽ
しぐれて街灯一本
有季定型の私が自由律の句を評することが出来るのかとも思うが誰でも山頭火、放哉、顕信の句を愛読したことがあり、そんな目で見て上の四句が目に留まった。
ただこの四句は自由律の中で多く詠まれてきた韻律だろう。二句目は本歌取りかも知れないが「鉄鉢の中へも霰」を思い出す。結局自由律の中にもそんな韻律が出来てしまうのだろうが、あまりそんなことを考えずに自由に内容に合った韻律で表現できると考えればよいのだろう。
剥がし破れたピンクチラシだらけの道
うすら寒く油ういた鍋つつく
そのような意味で日常が綴られた句が貴重ではなかろうか。積み重ねによって定型よりも個性を発揮できるような気がする。
顔ちがふやうにも見えて芒原
芒原はみな同じように見える。違うのは存在する地形や周りの風景であって、芒原そのものには個性がないとおもっていたが人間の顔がひとりひとり違うように芒原も違うのだ。
人間の顔には目、耳がふたつ、口、鼻がひとつだがそれぞれが雄弁に個性を語り人間違いすることはあっても同じものはない。芒原もよく見ればそのものがそうなのだ。
秋袷背中に指の届かざる
秋袷を着たときに背中のあるところに指が届かない。洋装なら問題ないところだが和服の場合、帯を締めるのに微妙なバランスが必要なのだろう。今年の場合厳しい残暑へのいらつきもあるだろうか。
自画像の左手隠れ落し水
この句は十分に理解したわけではない。自画像は俳句の読み方としては作者自身となるだろうが客観的に詠まれているので、ある画家の自画像だろう。肩から上の自画像が多いが手が見えていて左手は隠れている。高原にある美術館にそんな自画像があり外へ出ると水が落とされた田んぼが広がる風景を勝手に想像した。
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石原ユキオ 狙撃
狙撃というタイトルからして穏やかでなく、しかも猟師ではない。鼬という言葉も敵の符丁であろう。要するにスナイパー(狙撃兵)の世界として俳句は作られている。そしてそれは今でも世界で続いている内戦ではなく小説や映画の世界。
私自身が分かるのは小説なら大藪春彦、映画なら松田優作、探偵物語ではなく遊戯シリーズがぴったりする。
いつもこのように俳句を作っているわけではなく10句という枠の中での表現なのだろうか。いくつかの句は独立して読める。
浴槽に手足かさなる霜夜かな
西洋風呂に身を横たえたとき湯の中に伸びる足がありそれに重なる手が見える。外は寒く霜が降りる音がちりちりと聞こえるようだ。
狐火に微笑み方を教へらる
彼方に見える狐火は恐ろしいものだが神秘的でありよく見ると泣いているよりは笑っているようだ。自身の表情も次第に和み怖いものではなく友達のようになっていくのが不思議だ。
トランシーバーまづ咳を伝へけり
トランシーバーのスイッチを入れザーザーという音の中から咳き音がまず聞こえてきた。向こうもきっと寒いのだ。言葉よりもつよくはっきりとそのことが伝わる。
もっともこの三句もスナイパーを想像した方が面白い。
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谷 雅子 雨の須賀川
中通りもみぢ透けゆく雨となる
タイトルとこの一句目を読んで震災関係の句かと思ったが松明あかしが祭の名であった。こちらをタイトルに入れて貰った方が迷いがないような気がする。
松明あかし荒天が習ひよと
松明業火須賀川時雨巻上げて
松明の腹が火を噴く冬の雨
毎年雨にたたられる祭なのであろうか。良く雰囲気を伝えている。
祭の名が季語になり、松明は季語ではないので季語を加えなければならないのが少し煩わしいか。こんな場合、祭全体を季語として一句ずつには季語を気にせず詠んでも良いのかも知れない。
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中嶋いづる 秋熟す
蛇穴に愚直にのびる野鍛冶の火
後ろから自転車枯れてくる真昼
運河に沿う煉瓦のうねり霧が這う
現代俳句の基礎が虚子であってその基本が客観写生とすればここではより強い主観的な表現がされていると言えようか。もちろん虚子の句にも主観的表現は存在するのであくまでもバランスの問題だ。
客観では作者の個性はどこへ行くのか。みな同じようになってはしまわないか。
主観的な表現が比喩となり幅広い写生の句と読めると思う。自己表現のためのひとつの方法として注目する。
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矢野錆助 緑青日乗
浮かれ蝶見失う
鳩の目ん玉まで西日
銚子倒れた空っぽ
しぐれて街灯一本
有季定型の私が自由律の句を評することが出来るのかとも思うが誰でも山頭火、放哉、顕信の句を愛読したことがあり、そんな目で見て上の四句が目に留まった。
ただこの四句は自由律の中で多く詠まれてきた韻律だろう。二句目は本歌取りかも知れないが「鉄鉢の中へも霰」を思い出す。結局自由律の中にもそんな韻律が出来てしまうのだろうが、あまりそんなことを考えずに自由に内容に合った韻律で表現できると考えればよいのだろう。
剥がし破れたピンクチラシだらけの道
うすら寒く油ういた鍋つつく
そのような意味で日常が綴られた句が貴重ではなかろうか。積み重ねによって定型よりも個性を発揮できるような気がする。
第290号2012年11月11日
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第291号2012年11月18日
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第292号2012年11月25日
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