俳句の自然 子規への遡行10
橋本 直
初出『若竹』2011年11月号
(一部改変がある)
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『墨汁一滴』六月一五日において、子規は以下のような回想をしている。
明治二十二年の五月に始めて咯血(かっけつ)した。その後は脳が悪くなつて試験がいよいよいやになつた。明治二十四年の春哲学の試験があるのでこの時も非常に脳を痛めた。ブツセ先生の哲学総論であつたが余にはその哲学が少しも分らない。一例をいふとサブスタンスのレアリテーはあるかないかといふやうな事がいきなり書いてある。レアリテーが何の事だか分らぬにあるかないか分るはずがない。哲学といふ者はこんなに分らぬ者なら余は哲学なんかやりたくないと思ふた。(中略)哲学も分らぬが蒟蒻板も明瞭でない、おまけに頭脳が悪いと来てゐるから分りやうはない。ここで二つ気になることがある。子規自身の病に対する意識の持ち方と、「レアリテー(リアリティ)」についてである。
例えば一般に、病は人間にとって「自然」なのだろうか? もちろん病原体はそのほとんどが自然物だし、人間が生物である以上は必ず病むのが自然なことだが、生物として病むということを、自然のものとし、さらにあるがままに受け入れられるかといえば、病んだ当人の自意識は一様ではあるまい。風邪を引いただけでも、意識の上では健康時とくらべて不自然だと感じるだろうし、この場合の自然は人間と対立するものでもある。もしその自然物である病によって五体のいずれかの機能を失ったり、死病に取り憑かれたとしたら、その状況を自然なものとして受け入れることは、道家思想の権化でもなければかなり困難なことであるに違いない。
若い子規は、結核という死病に取り憑かれた時、そのことを物語にしている。彼が明治二二年の喀血後の療養中に書いた「啼血始末」は、夢で自分が閻魔大王や鬼達の前で裁かれた様を書いたという体裁であり、被告正岡子規の証言部分はそのまま詳細な彼の肺病の療養記になっている。話の設定にはユーモアを交えつつも、死に脅かされる子規の心情が垣間見えるようだ。裁判の終わりには「今より十年の生命を与ふれば沢山なり」と、己の余命の覚悟を赤鬼にさらっと言わせている。徒に自己の悲劇に嘆き悲しむでなく、といって無為自然的死生観に殉ずるでもなく、また近代科学的な合理に拠るでもなく、自己への冷酷な死の宣告を、虚実定かではない古来の俗な死の世界像に依拠して物語ることで、己への理不尽な運命をひとまず言語化(意味づけ)しているのである。
子規は新聞連載をまとめたいわゆる三大随筆の影響で、死病に取り憑かれながら精神の健康とユーモアを失わず書き続けたことが今も有名であるが、二十代の子規が死病をあるがままの自然のものとしてすんなり受け入れた訳ではないことは、この小編を書いていることでよくわかる。
さらに興味深いのは、これと同時に書かれた句集とみられる「血のあや」が、意に満たないとされ削られ伝わっていないことである。そのタイトルからして生々しい病にかかわる描写が含まれることが想像されるが、それらの句は削り、文を残したということに、この時の子規にとっての両者の言葉の違いが見えるように感じられる。すなわち、この物語の言葉はたとえファンタジックであろうと、いやむしろそうであることによって、文になることで書いた当人の心身を律する性質を持ちうるものではなかったか。それに対し、俳句の言葉は、何でも書き残す子規が削除するほど、後から読み返すには生々し過ぎる魂の叫び、あるいは悲鳴のようなものではなかっただろうか。考えてみれば、血を吐いて鳴くホトトギスに因んで子規を名乗るというのも、一見諧謔的な装いを纏いつつ、ひどく自律的な行為に思える。子規にとってこの時の文の言葉と俳句の言葉は同じものではないだろう。違う言い方をすれば、生のまま、あるがままを吐き出すことが表現主体において己の意に適うものだとは限らない、というものの見方、考え方がこの時の子規にはもたらされている。このことは、子規の「写生」の厚みを考える時、軽視できないだろうと思う。
ところで、後年の子規が冒頭の引用のように書いた時、後から振り返っても喀血したことが原因で脳が悪くなったと感じていたように読める。子規は別のところで「脳病」とか「憂鬱病の類」いう言い方をしているのであるが、しかしこれがいったいどのようなものだったのかよく分からない。資料を見ても医師の診断を仰いだかは未詳であり、後に芥川龍之介が子規の「脳病」について「『墨汁一滴』や『病牀六尺』に『脳病を病み』云々とあるは神経衰弱のことなるべし。僕は少時正岡子規は脳病などに罹りながら、なぜ俳句が作れたかと不思議に思ひし覚えあり」(「病中雑記」)と書いているが、今や「神経衰弱」は医学的に認められていないし、おそらく芥川は自己に引き寄せ過ぎている。引用部では省略したが、子規は勉強ができないかわりに俳句はたくさんできると書いていて、食欲が病的に落ちる風でもない。見方を変えればこの「脳病」は、高いストレスがかかると頭が働かなくなる、という以外に読み替えにくい。子規の「脳病」の原因は、死病に取り憑かれたことによるストレスと、それに連関して自己の将来の栄達と目の前の学問に行き詰まったことによる二重三重の苦しみがもたらしたものだと推測されるから、今の用語で言えば「鬱」の一歩手前のようなものだったかもしれないが、これも「脳病」というファンタジーで自らの異変を言語化した、ということなのかもしれない。
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