【週俳12月の俳句を読む】
深く丁寧に
大井さち子
掻き込む父啄む母よ石蕗の花 山崎祐子
幸いにして自分の両親、ダンナの両親共に健在だが、彼らを見ていると年を追うごとにだんだん性格が濃くなっているように思う。もともとの性格が次第に凝縮されて、せっかちな者はもう何かを待つということが難しくなり、心配性の者は先回りして心配の種をさまざま作り出してはそれを憂える。肉体が熟れて乾いてゆくとともに、性格の遊び部分が揮発しギュッと煮詰まってゆくのだろう。
掲句の父母もそんな感じだろうか。昔から早食いだった父は今は掻き込む勢いで食事を済ませ、母は食が細くなったのか啄ばむよう。見たままを詠みながら、作者の感じたものが句の後ろに描かれている。父母の晩年の姿はこの後自分が通るであろう道でもある。
ひよいと出す手が綿虫を殺めけり 山崎祐子
ほかの句もそうだが、この作者の作る安定したリズムは読んでいて心地良い。
坊主にして何かが変わるはずだったニートです 藤井雪兎
ニート=自宅警備員ですね、ある意味あこがれの。一生それでやっていければそんないいことはないのだけれど、作者は現状打破の決心をし、まずは形から、ということで頭を丸めた。ああだけど「何かが変わるはずだった」とは、なんて悲しいの。
火だ火だぞ火じゃねえか火があるぞ 藤井雪兎
火は何の象徴だろう。そして畳み掛けてつぶやきながら叫びながら唸りながら、作者は誰に向かって言葉を発しているのか。
火を飯に替えてみる。
飯だ飯だぞ飯じゃねえか飯があるぞ
金に替えてみる
金だ金だぞ金じゃねえか金があるぞ
やはり火でなくてはならない。原初、火がとても大切だった頃の人類の怖れとワクワクにも似て、火を覗き込み、闇の中で照らしだされた作者の顔は喜びに満ち、闇は火を得たことによって一層その色を深める。そして言葉は誰に発せられているわけでもなく、作者自身に深く丁寧に語られる。火とは作者にとって10年後の今を得るためのキーワードではなかったか。
それぞれに箸の汚れし師走かな 上田信治
大勢で一堂に会して食事をするような場面、忘年会でもパーティでもいいが、そういった場面の中で作者の意識は箸を切り取る。箸たちはまるで生き物のようにせっせと物を挟んだり口に運んだりしてだんだん汚れてゆく。その汚れが、箸を使う人の身に溜まった物のように感じられるのは、師走という季語の働きだろうか。一句の中に違和感を持ち込むのが得意な作者にしては珍しく一見ストレートとも思えるが、部分的なものではなく、この句全体がうすうすと妙な違和感を醸し出しているようだ。
第293号 2012年12月2日
■戸松九里 昨日今日明日 8句 ≫読む
■山崎祐子 追伸 10句 ≫読む
■藤井雪兎 十年前 10句 ≫読む
第294号 2012年12月9日
■竹中宏 曆注 10句 ≫読む
第295号 2012年12月16日
■山崎志夏生 歌舞伎町 10句 ≫読む
■平井岳人 つめたき耳 10句 ≫読む
第296号 2012年12月23日
■上野葉月 オペレーション 10句 ≫読む
第297号 2012年12月30日
■上田信治 眠い 10句 ≫読む
2013-01-13
【週俳12月の俳句を読む】大井さち子
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