2013-01-20
朝の爽波51 小川春休
51
さて、今回は第三句集『骰子』の「昭和五十八年」から。今回鑑賞した句は、昭和58年の新年から春にかけての句。この間、年譜上では記載がありません。
竹馬の立てかけてある墓籬 『骰子』(以下同)
大震災、戦争にて多くの家族を亡くした爽波は、習慣的によく墓参りをする人であった。掲句の墓は、籬も綺麗に整えられ、そしてその周りが子供の遊び場でもある、辺りに調和した親しみの持てる墓なのであろう。竹馬に、爽波も往時を思い起こしているだろうか。
水鳥にかぼそき声をあげし人
鴨・鳰・百合鴎・鴛鴦など、冬に水上にいる鳥を総称して水鳥という。かぼそき声の主、べらべら喋る人は似つかわしくなく、言葉少ない女性が目に浮かぶ。その声の前も後も、周囲もまた静寂に占められているから、かぼそき声が鮮明に印象づけられるのである。
時雨の戸閉(さ)しありされど敲かばや
しっかりと閉められた戸、主はもう就寝していたのかも知れない。しかし突如そこに「こんな良い時雨の夜に寝ていてどうする」と戸を叩く爽波が登場する(いささか酒が入っている可能性有り)。畳みかけるようなリズムが、気持ちの弾みを窺わせる。
避寒して刀目利といふ人と
寒気を避けて、暖かい海岸や温泉地などへ行く避寒。レジャーやスポーツなど楽しみの多い避暑と比べると、これと言ってやることがない。偶々知り合った自称刀目利き氏の話を呑気に聞いているのも、たっぷりと無為な時間があればこそ。これもまた、旅の楽しみ方の一つ。
お涅槃の蓋開いてゐる救急箱
涅槃会は、釈尊入滅の日といわれる旧暦二月十五日にその遺徳を偲んで行う法要。涅槃図を掲げ、遺教経を読誦する。この救急箱は寺院備え付けのもの、どうやら使われたばかりのようだ。参会者の誰かが頭痛でも訴えたか。生活感を感じさせる、法要の点景だ。
家ぢゆうの声聞き分けて椿かな
椿の咲く春ともなると窓も大きく開かれ、家の中で交わされる会話が外まで聞こえてくる様子からは、晴れやかな開放感を感じる。椿は家の生垣のものであろうか。中七の末の「て」は屈折を孕んでおり、聞き分けているのは人(作中主体)とも椿の花とも読める。
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