【週俳12月の俳句を読む】
謎めく写生舘山藤右ヱ門
哺ます乳マスクの上の目だけで見る 竹中宏
「マスクの上の目だけ」の解釈がポイントだろう。マスクして我が正体を隠し、乳を哺ます女を強く盗み見ていると解するのは、「ノイズ」(俳句をなす核心的モチーフ)としては常識的すぎるし、景色としても類型的すぎる。まして母子の親和性に焦点を当てるのは、先入主に侵された読み違いであろう。
問題は「目だけで見る」という、稚拙なトートロジー的表現だ。この稚拙な表現が入口で、その奥には、謎めいた洞窟が開いているというわけだ。また、「哺ます乳」という内在律の非生活調あるいは翻訳調的非情さが緊張を醸す。
生活世界は、人が役割として馴致された世界である。職業人、妻、母親、女性、どれも共同の約束事に支配された安全な貌として繋縛され、ほとんどの人がそこに安住する。それが、歴史を覆ってきたといってよい。
しかし、作者は、ある時、マスクによってあらゆる役割を消され、純一な「目だけ」の貌の女に出遭ったのだ。恐るべき匂い立つものに遭遇したのだ。その目は、たぶん妖しく、美しく、危険を湛えていたのだ。これが、作者竹中宏の言う「ノイズ」、写生の「ノイズ」そして、「混沌」の写生のモチーフなのだ。
その危険を、何と表現したらよいのか。
筆者の実感をここで持ち出せば、マスクの女性の目には、こちらを引き込む淵があり、まともに見返せば無事ではすまないのではないかと思わせる何かがある。
女であること、エロス的存在であることそのものの妖しい光なのか、獣的な妖光なのか、あるいは宇宙の淵から放たれる虚無光なのか、あるいは母性が蔵す大安心へ人を送り込む微光なのか、それらを含めたすべての妖しさか、筆者にはよく分からない。
いずれにしても作者は不可思議で謎めいた眼差しに遭遇したのだ。
しかも、その不可思議な目が、乳を哺む乳児を「見」ているというのだ。この役割を脱いだ女が、母-子と呼ばれる心身不分明な関係の流れの中に浸りつつ、それを「見る」とはどういうことだろうか。
これは、また謎をさらに深くする。この混沌とした洞窟世界。筆者の読みが及ぶことができるのは、このあたりまでだが、作者の無心の世界経験が、たぶん執拗な推敲と相まって、ここに一つの謎めいた写生俳句を成立させたのだ。
竹中宏という名は、ほとんど聞いたことがなかったが(それは、勿論、筆者が俳句界に全く疎いという事情によるものだが)、今回、竹中の句を読むに当たって、ネット上の情報を集めてみた。「写生」について、「ノイズ」という語を用いながら、筆者の知りうる限り、最も遠くまで行ってる人だと直観した。そして、それに触発されて、筆者もこの機会に「写生」について考えてみたいと思ったのだ。残念ながら、句集『アナモルフォーズ』はまだ読んでいないが、竹中が、竹中の師である草田男の、その限界や可能性などについてどう考えているか、興味が尽きない。
目借りどき棚田すこしく甕の腹 竹中宏
晩春の黄昏時の山間であろうか。棚田は、すでに水明かりが暮色の中に輝き、妻狩(メカリ)鳴きする蛙の轟音が天を衝く。棚田の畦は、その地形に合わせた等高線のようだ。段差は、数十センチから1メートルくらいだろうか。その山全体が、うねうねと延びる畦の曲線に覆われているのだが、作者には、その棚田を蔵す山全体が、水を湛えた、大彎曲の大甕に見えたのだ。その腹は、黒々と迫り出してくる。山は、生きものの相貌を帯び、春宵の広天の下、山は鼓動を打ち始めたのだ。
マフラーに荒れし唇引つ掛かる 平井岳人
確かにそういうことがあった。「引つ掛かる」が絶妙。筆者は、こういう句が好きだ。ひとつの経験の発露に、ちょうど見合う強度の言葉を探りえているというべきか。再現力、喚起力抜群。
オキャクサンドココッテルカ十二月 山崎志夏生
「物より自然(ジネン)に出づる情」を「なつかしく言ひとるべし」という芭蕉の言葉がある。十二月の、歌舞伎町の、とあるお店の、とある異国の人の、「オキャクサンドココッテルカ」。これを作者は、懐かしい思いで抱き取ったのである。人を見る情の深さとユーモア。哀愁、生活臭、猥雑臭。不夜城の歌舞伎町。
第293号 2012年12月2日
■戸松九里 昨日今日明日 8句 ≫読む
■山崎祐子 追伸 10句 ≫読む
■藤井雪兎 十年前 10句 ≫読む
第294号 2012年12月9日
第295号 2012年12月16日
■山崎志夏生 歌舞伎町 10句 ≫読む
■平井岳人 つめたき耳 10句 ≫読む
第296号 2012年12月23日
■上野葉月 オペレーション 10句 ≫読む
第297号 2012年12月30日
■上田信治 眠い 10句 ≫読む
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