【句集を読む】
てんでに呼応する俳句たち
金原まさ子句集『遊戯の家』
嵯峨根鈴子
『らん』第52号(2011年)より転載
つまりただの菫ではないか冬の 金原まさ子
真正面からこの句と対話している句がある。
さきほどの冬菫まで戻らむか 対中いずみ
金原まさ子と対中いずみとの接点はおそらくない。梅の盛りは腐乱に直結し、家も住人も丸ごと呑み込みつつあるが、それを遊戯の家と称して興じる金原まさ子。
方や田中裕明に見出され彼の元でその無垢で透明な詩性を開花させてきた対中いずみ。 しかしである、俳句はてんでに呼応するのである。
寝てからも守宮の足のよく見える 金原まさ子
額縁をはずして螢が出てゆけり 同
百歳になんなんとする作者がその手で冥界を手繰り寄せてきたかのような透明な空気はどうだろう。
糸瓜棚この世のことのよく見ゆる 田中裕明
もの焚けば人の寄りくる氷かな 田中裕明
予め晩年の眼差しの注がれた一句、読む度に不可解が生じ読者は不安の内に取り残される一句、案外背中合せにはこのような句があるのかもしれない。
生牡蠣を朝食う貴族には勝てぬ 金原まさ子
まだ夢を見てゐる牡蠣を食ひにけり 関悦史
生きている牡蠣を、牡蠣が見ている夢ごと、謂わば牡蠣の覚めやらぬ夢を横取りして味わいつくしてしまった関悦史を、貴族だ、勝てぬといいながらも、おいしそうと見ている金原まさ子が居る。
氾濫だ氾濫だとラフレシアの花の奥 金原まさ子
朴散るたび金貨いちまい口うつし 同
放蕩や螢を揉んでもみころす 同
異界冥界を行き来しながらこの世に向けて打ち上げられた真昼の大花火、読者は只その燃えカスを全身で受けるしかないのである。
最終章の「ガーデン」はデレク・ジャーマン〔*〕へのオマージュであるが、筆者は当初これを読み解く力も余裕もなかったことを告白しておく。映像作品「ザ・ガーデン」のメイキングとも言える彼自身の日記には簡素なコテージでの闘病生活が赤裸々に語られている。背後に原子力発電所の見える小石と砂だけの殺伐とした庭であるが、デレクはそこに彼だけの天国の庭を見ていたのである。ルリチシャ、サフラン、ポピーすべてがエデンの園にあるべきものなのである。
〔*〕デレク・ジャーマン 英国の映像作家。1994年、HIVの合併症により死亡。「ザ・ガーデン」は1990年の作品。著書に「モダン・ネイチャー」。
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≫〔評判録〕金原まさ子句集『遊戯の家』:ウラハイ2010年11月16日
≫『遊戯の家』問い合わせ:金雀枝舎
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