【句集を読む】
悪戯の紋章学
金原まさ子句集『遊戯の家』
関悦史
『らん』第52号(2011年)より転載
『遊戯の家』一巻は断定的で乾いた明快な詠みぶりの中にひしめくさまざまなモチーフのカラフルさと、綺想の中に咲き乱れる加虐趣味に満ちている。
青蜥蜴なぶるに幼児語をつかう
鬼百合は父かもしれぬ蕊を剪る
衣被モグラを剥くように剥きぬ
加虐性や悪意があらわれ出るのに、比喩や空想の形で言葉が間に挟まるのが特徴的だ。青蜥蜴をなぶるのには「幼児語」が使われ、鬼百合の蕊も「父かもしれぬ」という推量を重ねた上で剪られるところに鮮烈な悪意が弾ける。異国の神話伝説中の女王か魔女のようなこの語り手にとり、興味があるのは実存をかけて悪意を世界にぶつけることでもなければ、想念に閉じこもって悪意を空想的に形象化していくことでもない。ごく当たり前の挙措を句になす際に立ち現れる言葉の働き、言いかえれば対象にいかにイメージ変換を加え、思いがけない別の時空へと攫いおおせるかが問われる言葉と物事のはざまの領域に棲みつき、専制的に事物を変身させてしまうことである。
《指一本挿してありライムジャムの壺》《ついに鳴りだすエアギターと肉挽器》といった、現実にはあり得ない句もその営みの延長上にある。そして重要なのは、言葉によるイメージ変換、因果律壊乱が却ってそれぞれのモチーフの本情に、意想外の方角から触れなおしてもいることだ。衣被とはモグラのように剥かれるものであり、ライムジャムの壺とは誰のものでもない指がつねに既に突っ込まれているものであるかの如く、舐めてみよとわれわれを誘惑し続ける物件なのだというふうに。
この言葉と物事とのはざまの領域は個人的連想の範囲にだけ開けているわけではなく、歴史や文化の反照が窺えることもある
細螺になった水やりを忘れたから
古事記に収録されている久米歌に「神風の伊勢の海の生石に這ひ廻ろふ細螺のい這ひ廻り撃ちてし止まむ」がある。キサゴ貝のように這い回り、敵を殲滅しようというこの歌の「撃ちてし止まむ」の部分が戦時中に国威発揚のスローガンとして用いられた(作者たる金原まさ子さんは一九一一年生まれ。終戦時には既に三十代半ばに達していたこととなり、いささか眩暈に似た思いに誘われる)。いかなる動植物であったのかは不明ながら語り手の不注意がそれを生まれもつかぬキサゴ貝へと変貌させ、兵士のごとく無明の生動を這い回らせられることになったわけだが、悔悟の念とは無縁な風情のあっけらかんとしたこの綺想句の眼目が、歴史への想像的復讐にあったとは思えない。しかし句集の至る所に象徴レベルで弾けている無邪気な悪意の鮮烈さからは、思わずそうしたことまでも連想させられてしまうのだ。
焼却炉より鱶のかたちが立ち上る
目の青い天道虫は殺すべき
金魚玉透かすとマチュ・ピチュが見える
空蝉はまるごと蜜に漬けるべし
両性具有とは蓴菜とじゅんさいの水と
これらの句は外形・輪郭こそが重要なのであり、縁取りの明快さこそがそのまま言葉による異界への通路を成すというこの句集の論理を体現している。焼却炉から立ち上るのは鱶の想いでも亡霊でもなく「かたち」なのであり、それそのものが水のたゆたいを表す擬態語のような「マチュ・ピチュ」が見えるには「金魚玉」の丸い硬い輪郭が必要なのだ。「両性具有」の句はそうした輪郭の論理が打ち立てられた中であえて崩されたところに成り立つエロスを現している。《片仮名でススキと書けばイタチ来て》なる句もあり、これは字面の上での類似が現物までをも混乱させてしまう事態を示している。金原まさ子句においては言葉と対象物は明確な輪郭線をもって接しあい、入り組みあっている。そこが異界や悪意、綺想の根拠となるのである。
永遠の愛誓いて兜虫差し出す
食いおわりたる蟷螂の号泣よ
雪虫の恋瞶ていたるぶたれたる
月光の白牡丹鎖でつなぎある
これら愛や悲しみが剥きだしとなる局面においても、「兜虫」や「白牡丹」たちは情とは別な次元に輪郭けざやかに嵌め込まれ、一句を有機性と象徴性の結合の場となしている。いわば『遊戯の家』の句とは、全て「金原まさ子」を識別させる紋章なのだ。
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≫〔評判録〕金原まさ子句集『遊戯の家』:ウラハイ2010年11月16日
≫『遊戯の家』問い合わせ:金雀枝舎
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