2013-01-27

閉じ込められて 神野紗希句集『光まみれの蜂』の一句 西原天気

【句集を読む】
閉じ込められて
神野紗希句集『光まみれの蜂』の一句

西原天気


灯台のなかに階段秋の声  神野紗希

なるほど灯台は内部に階段がある。ここまでは、俳句世間でよく言うところの「発見」であり、一方、これだけ膨大な数の俳句が生み出されているのだから、同じフレーズの句はきっとどこかにある。だが、そんな「発見」やら「既存」やらを言うのではない。私がぐっときたのは「秋の声」だ。

灯台の中なので、人の声のように一瞬読んでしまいそうになるが、ものの本によれば、「秋の声」とは風雨や木の葉などの音。用例は《帛(きぬ)を裂く琵琶の流れや秋の声 蕪村》。前者と後者ではこの句の印象がまるで異なるが、やはりここは自然界と解したい。灯台のなかにいて聞こえてくるのは風の音や波の音だ。

灯台は、岬の突端。風が吹きすさぶ日も多いだろう。おまけに秋である。波の音もかすかに聞こえてくるかもしれない。

「秋の声」という一種曖昧な「総称的」季語が、句の中でピタッとキマることは稀だが、この句は、座五の「秋の声」こそがキモ。なにか、こう、こちらをつかんでくるものがあるのですよ。


ところで、この句集『光まみれの蜂』から自分の好いた句を抜き書きしていると、「閉じた」イメージの句が多いことに気づいた(句集全体の傾向ではなく、自分が惹かれた句についての印象)。

掲句の「灯台」も、内部の視点。《ヒーターの中にくるしむ水の音》(雑誌初出時は「くるしい」。推敲されたと思しい。私は「くるしい」のほうを採る派)は、閉じた内部に思いを注いだ点ユニーク。《夢に見し廊下と思う黴の宿》は、夢と廊下が二重の皮膜のように作者を包む。《ひとところ金魚魚眼となりて過ぐ》は、内部の金魚と外部の観察者の関係のなか、クローズアップの手法で読者を内部に引っ張りこむ。《くるみたるティッシュに透けて桃の種》の淡い美しさ。《本くらくノートあかるく夏の暮》からは、本やノートの外観ではなく、ページ内部の光と陰が見えてくる。《人に呼吸雛は桐の箱の中》では呼吸が箱の中の雛にのりうつっていく。そして《汗かく白人深夜のテレビ通販に》。かつての《二十のテレビにスタートダッシュの黒人ばかり 金子兜太》の「外」から、ここでは徹底的に屋内。それも深夜テレビという一種独特の閉塞感をまとった「箱」だ。

以上の抄出にはもちろん恣意が含まれる。けれども、こう読んでいくと、ひとつのトーンとなって私に響いてくることは確か。

10代から20代に作られた句群に「青春性」という括りを援用したくはないけれど、もしこの句集に「青春」があるとしたら、それは「テレビ通販」や「ピザの上の海老」、あるいは「コンビニのおでん」といった、いわゆる「現代風」の事物がもたらすものではなく、また句集の前半部分に目立つ「学校モノ」から来るムードでもない。閉じられたものへの眼差し、閉塞から来る軽くて薄い鬱屈のようなものから来ているのかもしれない(というか、そう思いたい)。

さて、そこで、この作者の句で、長く残っていくのは、このところ騒々しいコンビニの句ではなく、こういう句ではないかと思う《寂しいと言い私を蔦にせよ》。これはどうだろう。

老眼の目に間違って「鳶」と誤読してはいけない(誰もしないか?)。鳶なら(無季にはなるが)、空を、〔外〕を希求する作者像となる。ところが、ここでは「蔦」なのだ。私には意味がとりづらい句だが、「蔦」を〔内〕と〔外〕のあいだに存する膜のようなものと思えば、そうとうにコジツケっぽくはあるが、この句にもまた、〔内〕への視点を見出だせる。

俳句は些細なもの、小さなものを読む。どんな些細で小さなものにも、おそらく〔内〕と〔外〕がある。「もの」を見て、その〔内〕と〔外〕に思いを到らせる。そこのところがムードに流されずにしっかりと実現されている点、この『光まみれの蜂』の大きな魅力ではないか、と思っている。

と、こう締めると絶賛すぎるので、余計なことも言っておきたい。句集のはじめのほうにあるに『星の地図』(2002年)からの再録(つまり作者の10年以上前の句群)は、この句集から捨ててよかったのではないかというのが感想。もちろん再録は作者の意図、大きなお世話とわかりつつ。




4 comments:

ディオゲネス さんのコメント...

西原天気様
寂しいと言い私を蔦にせよ
この句は、ベタなドラマなんですよ。
寂しそうで、消え入りそうなあなたという男に、蔦のように絡みつきたい。ただそれだけのこと。作者の神野さんは、これをドラマとして突き放して書いているかというと、そうでもない処が気持ち悪いのです。同じ作者の自選10句に「カニ缶で蕪炊いて帰りを待つよ」「コンビニのおでんが好きで星きれい」などの句もありますが、私的な独白が、無残な自己肯定になってしまうことに気づいていないのです。たぶん、俳句という公共空間で、私的な自己愛を故意に露出して見せて、従来の俳句空間に何らかの衝撃を与えようとしたのだと思いますが、失敗に終わったということです。ただご自身は失敗とは思っていない処が深刻なんだと思います。
 ただこの作者は、才能のある方ですから、後日期待ということで。
                      ディオゲネス拝

匿名 さんのコメント...

ディオゲネスとのお名前がでているから、古代ギリシャ神(ローマ神ではバッカス)をご存じの上で、コメントされていますね。
踊り狂って死ぬのと、蔦になるのとどっちがいいか。
内に向かっている句というのは賛成。自己陶酔、も考え方。いろいろな意味に読めるから俳句は楽しい。

天気 さんのコメント...

ディオゲネス さん。こんにちは。

蔦を比喩としてだけ捉えれば、たしかにベタに過ぎなくなりますね。

でも、ベタだから残っていくということもあります。

ちなにに、私は、この句を書き抜きませんでした。

天気 さんのコメント...

匿名 さん、こんにちは。

蔦からディオニュソス!

読み(私にとってのこの句の読み)が広がりました。