【不定期連載】 牛の歳時記
第14回 雪
鈴木牛後
雪の村こゑもなく牛売られ去る 大串章
この句の眼目は「こゑもなく」というところだろう。この句の舞台はおそらく戦後まもないころの寒村。牛は貴重な働き手だった。そこで牛が売られてゆくというのはどういう光景だったのだろうか。
子牛が売られることはよくあったのだろうが、ここでは働き手としての牛が売られていったのではないかと思う。牛が売られてゆくということは、牛を飼っている農民に何かがあったということ。食えなくなって離村するのか、病気か怪我で働けなくなったのか。どちらにしても、重苦しい状況であることは間違いない。
「こゑもなく」去っていったのは牛だけではない。牛を手放さざるを得なかった農民も、曳かれてゆく牛を見送る村人も、みな「こゑもなく」佇んでいたのだ。
雪は冬の季語の代表的なものであり、なかんずく当地のような雪国では格好の句材だ。にもかかわらず、たぶんこの連載に「雪」のことを書くことはないだろうと思っていた。我が家では冬になると牛は牛舎の中に入れっぱなしになり、牛と雪との接点はまったくなくなってしまうからだ。
しかし先日、思いがけないところにそれが現れてしまった。「しまった」というのは、できれば見たくない光景だったからだ。
うちで一番の高齢牛が足を痛めて立てなくなった。獣医さんに見てもらったら、人間でいえばアキレス腱にあたる部分が切れてしまったらしい。人間なら手術をして治すところだが、牛は立てなくなったらもう終わりだ。ただちに安楽死処分となった。牛を安楽死させることは特に珍しいことではなく、我が家でも毎年のようにある。何度も見ているうちに私もその光景にすっかり慣れてしまい、それほどの感慨は抱かなくなってしまっている。
死んだ牛は専門の業者が引き取りに来る。来るのはたいてい午後なので、午前中に外に出しておけばいいと思っていたら、午前中のかなり早い時間にやって来た。まだ出してないよ、というと、今日は忙しいからまた明日来ると言って帰ってしまった。翌日の仕事のこともあって牛はその日に外に出し、仕方なく雪の上に一晩横たえておくことになった。
翌日業者が来て、牛はユニック車(クレーン付きのトラック)で吊られて荷台に乗せられていった。そこまではいつものことなのだが、私がはっとしたのは、牛がいたところの雪が牛の形に融けて凹んでいたことだった。死んだ牛はもちろん体温は下がってゆくのだが、急に下がるわけではなく、しばらくは雪を融かすには十分な熱を帯びているのだ。牛は大きな胃の中に草を分解する微生物をたくさん飼っているのだから、他の動物よりなおのこと冷えにくいのかもしれない。
私は、大きく無残な物体となった牛がつい先ほどまで生きていたという、当たり前の事実にすこしたじろいだ。
牛が立てなくなり、安楽死処分となる。死んだ牛を外に引きずり出し、ユニック車が運び去ってゆく。その一連の流れは、私の意識に大きな波風を立てはしない。すでにそれは日常の一部だからだ。しかし、そこにいつもと違う事象が少しでも割り込んだとき、それを契機として生と死が生身のものとして立ち現れてくるのだろう。
もちろん死んだのは経済動物としての牛なのだから、それほど感傷的になったというわけではなく、ユニック車の音が聞こえなくなり、牛舎の入口のシャッターを閉めればまた日常に戻るだけである。
牛の死に雪は真白を増しゆけり 牛後
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