2013-03-17
朝の爽波59 小川春休
59
さて、今回は第三句集『骰子』の「昭和五十九年」から。今回鑑賞した句は、昭和五十九年の夏の句。採り上げた期間が短いのもありますが、今回も年譜上記述のない期間。
卯月野にさて胸の裡明かさばや 『骰子』(以下同)
卯月は旧暦四月の異称。月の名を冠した野は、単に野と言うよりも、広々としたものを思わせる。胸の裡に秘め続けていたものを明かす決心が心に湧き起こったのは、こうした卯月野の広がりと、初夏という時期ならではの瑞々しい新緑が影響を及ぼしたのだろう。
葺替も済みて電線大揺れに
冬の間の雪や風に傷んだ茅葺や藁葺の屋根を葺き替える。住環境の変化によって、こうした景も目にする機会が少なくなった。葺替も済み、美しく整った屋根は目にも心地良い。電線の揺れは春先の強風を思わせるが、電線と葺替の共存は、この時代ならではのもの。
寸づまりなるも足早毛虫かな
毛虫は蝶や蛾の幼虫。植物の茎や葉を食害するので害虫と言うことになるが、それは人間の都合。毛虫は毛虫で日々を懸命に生きている。「寸づまり」な体はどこか愛嬌があり、「足早」という語からは、目的地を持って、必死になって急いでいる様子が窺われる。
巻尺を伸ばしてゆけば源五郎
夏の池や沼、水田などで見かける源五郎。櫂に似た後脚を使って泳ぎ回るが、陸に上がると上手く歩けない。巻尺を使うのは一般的には室内の方が多いかもしれないが、下五に突如登場する源五郎から、辺りに広がる夏の水辺の景が読み手の脳裏に鮮やかに広がる。
身のどこか窮屈にあり青嵐
青葉のころに吹き渡るやや強い南風を青嵐と呼ぶ。掲句、「身のどこか」とぼやかした言い方にしてあるのは、狭い座席に座るなどの物理的な窮屈さではなく、心理的な窮屈さと読むべきだろう。心理的な窮屈さは、解放したい何かが身に潜んでいることと表裏一体だ。
怖き父家に在る日の草いきれ
父親を「怖き」と感じるのは、何歳ぐらいまでだろうか。大抵成人する頃にはそうした感情も薄れ、異なったものとなってくる。父が在宅というだけで感じる威圧感のようなものと、繁茂した夏草から立ち昇る濃密な熱気と臭いと。鮮明な、少年の日の感覚が蘇る。
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