俳句の自然 子規への遡行18
橋本 直
初出『若竹』2012年7月号
(一部改変がある)
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偶然か必然か、喀血したのと同じころ(明治二十二年)から、子規は古俳句の収集をはじめている。どの程度明確な方法意識のもとに始めたのか定かではないが、その収集がのちに体系的目論見をもった大仕事になっていく。いわゆる子規の「俳句分類」である。
「俳句分類」は、連歌の発句や『毛吹草』から写しはじめられ、約十年の間に十二万を超える近世の句を収集し、分類したものである。空前絶後の労作と言っても良く、子規がその多くの時間を病臥していたことを考えれば、おそるべき努力であったと言える。が、現代の実作者がそれを目にする機会は多いとは言いがたく、あまり知られてはいまい。
その分類は、甲号(稿本第一冊から第五十三冊)、乙号(稿本第五十四冊から第六十四冊)、丙号(稿本第六十五冊)、丁号(稿本第六十六冊)の四種。子規の稿本のタイトルは「分類俳句全集」「類題発句集」等複数あるが、これまでに出版されたものは書名を統一してあり、『分類俳句全集』全十二巻(アルス 昭和三、四年)と、その復刻版の『分類俳句大観』十二巻(アルス版の復刻)と別巻(山下一海氏による解説、甲号乙号季題索引、総目次)の全十三巻(日本図書センター 平成四年)二種がある。
稿本の冊数でも分かるとおり、量的にはそのほとんどが甲号であり、当時の歳時記や類題句集とほぼ同様に、四季と雑で分類されたものである。乙号では季語以外の事物による分類、丙号ではさまざまな特徴による分類、丁号では句調による分類がなされており、後の三種は従来の方法を踏まえた甲号を軸として派生的に浮かんでいった細目による分類をしたものと思われる。
なぜ子規がそのように俳句の分類をしようと思ったのかについては定説があるわけではない。柴田奈美著『正岡子規と俳句分類』(思文閣出版 平成十三年)の整理によれば、もともと記録と分類が好きであったこと、『当世書生気質』を読んで比較することの面白さと効用に気づいたこと、師事した大原其戎が亡くなった後は独力で俳句を学ぶことを決意し、古句を読んでいたこと、夏目漱石との間で闘わせた「アイデア」と「レトリック」論争によって、子規自身がレトリック重視の主張をする立場をとったことなどが理由にあげられている。柴田氏は、漱石との論争を止揚した結果が、本学的な俳句分類着手の動機だったとしている。氏は、さらにその分類された古句群と子規の句作の影響関係を時期別に丁寧に追われているが、本連載の視点からは、それとは別に、子規の分類という行為そのものについて少し考察してみたい。なぜならそれが、子規が自然を見る目と大きくかかわっていると考えられるからである。
俳句分類を始める少し前までの子規は、詩歌好きを自認しつつ、専攻する哲学と文芸とは全く正反対のものだと考えていた。「詩歌を愛すること甚だしく小説なくては夜が明けぬと思ふ位なり」(「哲学の発足」『筆まかせ』明治二十一年)という子規は、学問としての哲学と愛好する詩歌との板挟みになった格好であったが、明治二十一年ごろになって「審美学」という、哲学で詩歌書画など芸術を論じることができる領域を知って喜ぶことになる。
先の柴田氏の論にも沿った見方をすれば、子規は漱石との論争において、漱石が「小生の考にては文壇にて赤幟を翻さんと欲せば首として思想を涵養せざるべからず」と書いたところの「思想」にあたるものをこの「審美学」をもとに自分なりに作ろうとした、その実践がこの「俳句分類」だったと考えることができるだろう。
子規は後に「俳句分類」を、「巧拙に拘らず、時代に拘らず、出来るだけ多くの俳句を網羅して、そしてそれを分類せうといふ目論見」で、「先づ古代から始めて漸次近代に及ぼすという方針」(「俳諧三佳書序」)だったと回想している。いわば、俳句作品の歴史の流れの広大な見取り図を作成しようとするもので、それは自らの俳句の美学のための「ものさし」を作る作業であったといって良い。
それでは、この俳句の分類を基にした「思想」とは、具体的にはいかなるものであったのだろうか。また、子規は分類することによって思想を立ち上げようとしたようだが、分類そのものがすでに思想を内在すると気づいていたかどうか。そして、子規個人の思想構築以前に、時代の思想の反映でもあったということもできるだろう。「俳句分類」において彼が選んだ方法は、近世以来の類題句集に沿った四季の詞による分類であると同時に、所々で近代がもたらした科学の影響を見ることができる。
何かを体系的に分類するという行為は、例えば子規の時代には共同幻想として西洋近代の学理がそのように見えたことはあったかも知れないけれども、人間にとって純粋に客観的、普遍的な基準などどこにもあろうはずはない。ある見方を選んだということで、それによって世界を認識するありようを定めた思想が成立する。その自ら選び取った基準は、便利に使えもしようが、基準である以上は自らを縛ることにもなるはずである。つまり、子規が選んだ俳句の分類方法は、理屈から言えば子規の俳句に対する思考を様々に規定していることになる。既存の類題句集をほぼなぞる形で進んでいる俳句分類から、いわゆる「写生」提唱にいたる子規の実践の軌跡は、見えにくいけれども、一般に無意識と言われるような水準まで可視化する試みであったという意味でも、興味深い。
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