【俳誌を読む】
三誌(『塵風』『はがきハイク』『豆の木』)雑感
小津夜景
まずは『塵風』第5号。写真特集。
つげ義春の撮影した写真が、あまりに本人の漫画の雰囲気そのままでおどろいてしまう。
光彩のむくみのせいで、暗い部分が手のつけようのない陥没に見えてひどく恐ろしい。また対象がいかにもいわくありげに把握されており(いわゆる絵描きの視線?)、眺めているとまるで自分もつげの窃視に立ち会ったかのような気分にさせられる。もちろん写真の中には窃視しなければならないような秘密など見当たらず、どこにでもある風景がぼんやり映っているにすぎないのだが、つげにとっては世界を見ることがそのまま窃視の意識と重なるのか、読者もそうした心象を通じて東京の風景を覗くことになる。
或いはつげに限らず、人はファインダーを覗くとき、窃視に通じる挙動を多かれ少なかれ垣間見せるものなのかもしれないし、またそんな挙動は世界と自己との均衡ならざる力関係を思えば、撮る側に許されるささやかな戦略となる場合もあるだろう。とはいえそれがプロの話となれば全く次元が変わってくる。写真史において、私の眼差しという「密室の覗き窓」を介して世界を照射するといったデカルト的遠近法は、写真と風景(内面)の歴史的共犯をめぐる典型的図式としてこれまでいくども批判的検証にさらされてきたのであり、そういった意味では今号の『塵風』に、強い喚起力を持ちつつもやはり門外漢のそれであるつげ義春の写真と鬼海弘雄のインタビューとが同時に掲載されていたことは、読者にとっての好都合だといえるだろう。
鬼海の写真は、撮る者の側の理想や技術によって、そこに内包されるべきメッセージを創造(仮にフォトジャーナリズムであれば、社会主義や実存主義のライン上に)したような統覚的なものではない。また見る者の側の記憶や解釈によって、そこに欠落するメッセージを補完(仮にプロヴォーグやコンポラであれば、現象学や精神分析学のライン上に)させるような断片的なものでもない。
ではその作品は一体いかなるものか。それは今号のインタビューを読めば、なんとなくわかる(ような気分になる)。なぜ彼がきわめて美的に(つまり反省的に)対象を把握する写真家であるにもかかわらず旧弊な美に陥らないのか、なぜ逸話的なタイトルを作品に与えながらも通俗的な物語を免れているのか、なぜなにげない風景を撮ってもそのトリビアリティが劇場性へと逆説的に転化しないのか——。とても面白いインタビューなので内容に踏み込むことは控えるが、一言のみ記せば、鬼海は「撮る私の純化」や「眼差しの瞬間性」などの抽象的企みと没交渉であることによって、交歓的かつ溶解的なイマージュの地平を対象との間に実現しようと努めているようだ。
読んでいると、ご本人の繊細さや美を正確に見極めようとする慎重な性格がよく伝わってきて「この人ゆえのこの作品」を深く実感させられるインタビューだった。
ところで、なぜかこの俳誌には短歌も掲載されている。作者は佐山哲郎。これがまた良い。何が良いかというと、作品が相当に凄まじく速書きなのである(勝手な推測だがおそらく事実)。せっかくなので順選と逆選(もあえて選びたくなるほど胆力あふれる連作なのが凄い)を挙げてみる。
順選
黄昏の眷属として鐘の音と男と女ありて舗道は
ロベール・ドアノー
決定的瞬間といふ託宣を遺して朝の螺旋階段
アンリ・カルティエ=ブレッソン
どう見ても私は謎だ。どう見ても冥き楽器としてのお尻も。
マン・レイ
滑らかな白磁のやうにヴォーグ誌に熟れてをんなの立体交差
ヘルムート・ニュートン
ヨーロッパ静止した時間されど未だ胸にとどまる鳥の影あり
奈良原一高
逆選
その節はどうも薔薇刑鎌鼬苦くも甘き性微の日々
細江英公
他、各執筆者による写真にまつわるエッセイ&巻末の同人句集などといった構成。紹介が長くなってしまったので、連作としての楽しさを感じた井口吾郎「ニコン金庫に」と、かまちん「どうしても」からのみ作品を引用する。
枸杞飯に入れんマンレイ煮染め濃く 井口吾郎
国の志士ニコン金庫に猪の肉
ミノルタアグファ河豚当たるのみ
春の海スルメ踊りを見たという かまちん
花の下ほんたうにくだらない男
頭からタラの芽が吹く聖五月
どうしても井筒部屋にはいりたし
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お次は『はがきハイク』7号
これは笠井亞子&西原天気による、オシャンティーな俳誌。
一生にまばたき無数柳絮とぶ 西原天気
柳は漢詩で別離のお題となっているので、何か参考になることはないかと思いネットで検索してみた。すると出るわ出るわ。杜甫の「癲狂の柳絮は風に随ひて舞ひ」といったフレーズなどは即席で俳句に化けそうである。
掲句は非常にロマンチック。まばたきという心なき行為を、これまた無情の現象である柳絮の飛散に重ね合わせることで、実は静心のない春のさびしさや漂うばかりの夢の世を、温かな筆致で描いている。ケサランパサランたる白い綿毛が醸し出すケ・セラ・セラ的抒情や、切迫感とは無縁のふわふわした流離感も、作者の夢想的な資質にしっくりくるようで、平明な広がりが心地よい。
週末がモンシロチョウほど忙しい 笠井亞子
無為に優雅なさまが立派だ。優雅さがある種の暴力とならないためには、この句のように何にもまして「どうでもいい」雰囲気が全面に出ていなくてはならず、またそのためには作者自らが「有閑なんてろくでもない」と任じている必要がある、というかそうでないことには優雅な日常というのは全く成立しない(それゆえ、たまに無為ならざる「優雅な句」に出会ってしまうと、ひどく惜しい気分になる)。掲句はモンシロチョウという語が選ばれた瞬間に、俗世に対する作者の執着がさらりと捨象されつくしたようにみえる点が巧みだと思う。
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締めは『豆の木』第17号。
同人によるアンソロジーでは、大石雄鬼の10句「うつすらと」に惹かれた。また氏の句集『だぶだぶの服』をめぐる田島健一・小野裕三の書評を合わせて読めたのも収穫だった。(小野氏の文章は週刊俳句が初出→ http://weekly-haiku.blogspot.fr/2012/09/blog-post_1918.html )
田島・小野の両氏は、共に大石の句に顕著である身体性をめぐって論を組み立てているが、その解釈をめぐっては真っ向から対立している。田島の考える大石の身体性が「〈世界〉のサイズが〈私〉の身の丈に合わないからこそ、それを見つめる〈私〉の視線に価値が生まれる」といった主客の違和に基づく一方、小野のそれでは「徹底的に自分の体を消し去る。消し去ったのちに、彼の身体はどのような環境にも敏感に反応するセンサーになる」という風に、主客の同化が強調される。
小野の述べる同化は「私の透明化」ないし「透明な身体」として表現される。
「身体自体に傾向や癖がないゆえに、どんな環境であっても適応性が高い、ということだ。どこから来た玉でも受け止めて巧みに打ち返す、そんな天才バッターという雰囲気(…)ほとんど実は身体など存在しないのではないか、と思わせる自在さ」(62頁)
一方、田島の述べる違和は「〈私〉からはみ出しつつ〈私〉に回帰する異物」として確認される。
「この異物に対する〈羞恥〉を受け入れることで、彼自身は彼以上のものとして世界に登録される。つまりそのような〈私〉をはみ出す異物こそが〈私〉である(…)その異物を取り除いてしまうと、主体そのものも失われてしまう」(59頁)
こうした対立の分水嶺を見極めることは、実際に句集を読まない限り不可能なので、今回はそれぞれの論を興味深く読むに留まった。もっとも今号の連作「うつすらと」に限って感想を述べるならば、私が魅せられたのは大石の「異物」を触知する才能である。
大石は、外界と自己とをゆるやかに分離する皮膜のような境界を palper (触れる・接する・さぐる・当てる・触診する)すること、あるいはそうした皮膜から成る袋状の領域(穴・殻・巣・嚢・器・体)を dépouiller (むく・はぐ・ぬぐ・奪う・むきだしにする)することによって世界を認識しようとする。この〈皮膜のような境界ないし袋状の領域〉は、作中において「異物」としての働きをもち、また大石とそれとの関わりは、さしあたり田島の述べる「彼自身を彼自身以上のものとして世界に登録する」契機を含んでいるよう、私には感じられた。
だしの素を鞄に入れて冬ざるる
ポケットに田の匂ひして笹子鳴く
光あるところを掃いて雛の日
胸に手のうつすらとあり鰯雲
月満ちて寺井皮膚科のさびしさう
未現像フィルムが炭のごとくあり
驚くやうにあいて真夏の電気釜
夜に撃てば水鉄砲の大きかり
「だしの素」や「田の匂ひ」に見られる、鞄やポケットといった袋状の領域は、世界を触診するため作者が意図的に介在させたであろう異物である。「光あるところを掃いて」みるのは、それが境界をなぞる行為=世界を確かめる行為に通じるからだ。「うつすらと」では手それ自体が胸(自己)と鰯雲(外界)とをわかつ薄膜の境界としてそこはかとなく感取され、「寺井皮膚科」では皮膜をめぐる「もののあはれ」が月下の露見よろしくリテラルに言及される。さらに「炭のごときフィルム」といったモノ派的実在感については、フィルムケースという容器からむき出しにされた物体の放つ一種のワンダーであると予想できるが、こうしたワンダーは「真夏の電気釜」が「驚くやうに開いて」その内部領域を露呈するときや、液体を放出(当然これもdépouiller脱皮=露呈のヴァリエーションである)する「夜の水鉄砲」を見て、その容器の大きさをことさら体感してみせるという形においても繰り返される。
こうした見立てを応用しつつ、田島・小野両氏の引用する句群も読んでみる。
炬燵に穴のこして海を見にゆけり
犀は角見ながら育つ冬銀河
おのが手も見つつ野分の犬撫でる
虫売りがだぶだぶの服にて眠る
冬花火からだのなかに杖をつく
盲腸のあたりで手鞠ついてをり
花火見てきしざらざらの体かな
とんかつの荒野が口にある遅日
犀が水たまりを押してゐる彼岸
夏障子破れて森が見えてをり
ギターの穴浮かんでゐたり春の川
憲法講座にハンガー多し春暮るる
夏痩せて小学校のなかとほる
これらの句でも、大石の palper 及び dépouillerによる〈皮膜のような境界ないし袋状の領域〉への愛着は留まるところを知らない。曰く、脱皮じみた炬燵の穴。角という異物の皮膚を目視する犀。置かれた途端に薄膜の領域と化すであろう手を触視しつつ、犬にも触れる行為。虫売りと触れ合うだぶだぶの服、またそんな空蝉的皮膜を巣穴とした彼の眠り。体という皮袋の中に杖を当てる行為。盲腸という膜袋に鞠を当てる行為。ざらついた皮膚感覚への言及。とんかつのある口内を荒涼たる領域とみなす発想。水たまりという境界を押す犀。障子という境界とそこに開いた穴、さらにはギターの穴やハンガー(脱衣 dépouiller に関係する道具)への目視、そして夏痩せの自己像が語る、おのが巣たる皮膚への止むことなき関心……。
以上のように、大石は世界を確認するにあたって、さまざまな〈皮膜のような境界ないし袋状の領域〉を自己との間に介在させつづける。その異物を破り出るためではなく、むしろその「偏った手触り」を人知れず愛おしみ、目を見張り、時としてそれに抱かれるために。大石のこうした嗜好は、例えばディディエ・アンジューの論書『皮膚=自我』などを用いて整理しうる部分が少なからずあるだろうし、またその場合「田島の考える〈羞恥〉とはいったい各句のどの辺りを指しているのだろう?」とか「もしかすると小野の語る〈私の透明化〉は、皮膚=自我に基づく共鳴能力を意味していたのだろうか?」とか「もしそうであれば、大石の句は強い神話的構造をもつのかもしれない」などと妄想もどんどん膨らんでゆくのだが、いかんせん、それらを数限られた引用句から検討するのはどうみても無理なのが、今回のささやかな無念であった。
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2013-05-26
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