小川春休
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花藤や母が家(や)厠紙白し 草田男上記は昭和五十八年四月三十日版の毎日新聞が初出の文章の一節ですが、伏流水のようにこういう意識があって、〈腹具合怪しけれども舟遊び〉という句が生まれたのではないか、とちらっと思う訳です。
母が家(や)ちかく便意(べんい)もうれし花茶垣 草田男
厠にゆかりの二句だが句柄は全く異なる。
前句は格調も高く美しく心の籠った句だが、意表をつかれた思いで長く私の心を揺さぶり続けたのは後句である。
「便意もうれし」など、こんなに個に即したことがあけっぴろげに詠われ、それが詩として読み手の心をうつなど、私としては考えても見なかったことであった。そしてまたこの二句が殆ど同じ時期に同じ作者から詠われていることもまた頗る印象的であった。
「自由濶達」そのものと言うべきであろう。
(波多野爽波「俳句開眼の一書 -中村草田男『銀河依然』-」)
さて、今回は第四句集『一筆』の「昭和六十年」から。今回鑑賞した句もまた、昭和六十年の夏の句。同年七月、高槻吟行会の鍛錬会で清滝を訪れています。もしかすると、今回鑑賞した句の中に、そこでの句が含まれているかもしれません。
脇息に倚れば直ちに牛蛙 『一筆』(以下同)
夏の夕方、水辺の方から「ンボーッ、ンボーッ」という低音の大きな声が聞こえてきたら、それは牛蛙の求愛の声。山里での、夕餉の席であろうか。席に着くなり牛蛙の声が響いたのである。「直ちに」とは、牛蛙の声を聴くのを楽しみに待っていたかのような風情。
栗の花踏んで別れぬみぎひだり
一読、童謡「大きな栗の木の下で」を思い出すのは私だけであろうか。大きな栗の木と、そこから左右に分かれて続く二本の道。単純化された大きな景も、童謡のような趣を感じさせる。そこに臨場感を与えているのは、散り敷いた栗の花を踏んだ感触とその香り。
火熾しの団扇で裾をばたばたと
扇が携帯用とすれば団扇は家庭でくつろぐ時に使うもの。暑い時期に涼を求めて用いるのが主だが、掲句のように、火熾しなどの用途にも用いられる。ふと目に入った火熾し用の煤で汚れた団扇で、ほとんど無意識のうちに裾を扇ぐ。自ずとその暑さが思われる。
我が齢君が齢や舟遊び
貴方も歳を取られましたね、などと誰かに言われたのだろうか。何を言うんです、貴方だって同じように歳を取ったでしょ、と即座に返したかのような一句。時間の厚みを感じる上五中七に対して、楽しく快適な時間はすぐに過ぎてしまう、舟遊びの刹那性が際立っている。
腹具合怪しけれども舟遊び
一句前の〈我が齢君が齢や舟遊び〉の重みから、一転しての軽妙な句。仲間あっての舟遊び、腹具合に不安があっても、一人で陸に残るのは耐えられなかったのだろう。小船を思わせる「舟」という用字から、さてはこの舟、トイレが無いのではないかと想像が拡がる。
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