おんいんくん
三島ゆかり
『豆の木』第17号より転載
詩には韻律というものがある。例えば杜甫『春望』なら
國破山河在
城春草木深
感時花濺涙
恨別鳥驚心
烽火連三月
家書抵萬金
白頭掻更短
渾欲不勝簪
の偶数行末尾で「深/心/金/簪」が脚韻を踏んでいる。例えばビートルズの『イエスタデイ』なら
Yesterday
all my troubles seemed so far away
Now it looks as though they're here to stay
Oh I believe in yesterday
のそれぞれ行末で「-day/away/stay/-day」が脚韻を踏み、
Suddenly
I'm not half the man I used to be
There's a shadow hanging over me
Oh yesterday came suddenly
のそれぞれ行末で「-ly/be/me/-ly」が脚韻を踏んでいる。韻律はそれぞれの文化圏において古来様式美として確立し、ときに詩の内容に寄り添い、ときにノンセンスとして思いがけない効果を発揮し、玩味されてきた。
さて、日本語の、とりわけ俳句に関する場合はどうだろう。日本語は子音の数、母音の数が他言語に比べ少なく、ほぼ一音ごとに母音が現れる特異性から、韻律を配慮してもあまり面白いものはできず、ましてや十七音という限られた俳句においては配慮してもほとんど意味がない、という言説がある。多くの人にとって異論のないところであろう。俳句実作の世界で韻律をめぐっては、次の三通りのグループに分類されるだろう。
1)韻律にまったく関心がないグループ
2)韻律を重視し、ノンセンスを指向するグループ
3)韻律を重視しつつ、意味の世界との折り合いを指向するグループ
以下、3)のみについて述べる。そもそもほとんどの場合、ことば(文字とか音とか。シニフィアン)とことばの指し示す実体(シニフィエ)は関係がない。「いぬ」という文字も音も、それが指すあの動物とは無関係である。もし関係があるのなら、あの動物の指す世界中のことばが「いぬ」に似たものになるだろう。
それゆえ、例えば母音の響きを
A音=晴れやか・めでたさ
I音=冷ややか・とげのある
U音=心の中にそっと秘めておきたい
E音=ゆがんだ・ねじれた
O音=ほのぼの・あったかい親しみ
と分類したとして、母音A音で始まる言葉には「あかるい」「あたたかい」「かわいい」「愛」などがあるという説明をするのはあまり意味のないことだろう。母音A音で始まる言葉には「あわれ」「かなしい」「さびしい」「悪」…もある。シニフィアンである音は、指されるシニフィエとはほとんど関連がない。
とはいえ、音声学的には、母音にしても子音にしても発音するときの口のかたちで区別される。区別される以上、それぞれの音が喚起させるところの像(とでもいうべきもの)があるのではないか、と考えるのは自然なことである。A音にはA音の像があり、I音の像があり、…。子音についても口のかたちにより無声音には無声音の像があり、鼻音には鼻音の像があり、…。これは、シニフィエはさておきシニフィアンの世界の分類である。像は悩ましい。それぞれの母音や子音を分類できるところまでは非常に科学的である。しかし、それぞれの分類された音がどういう像を喚起するかの話になると、ぜんぜん科学的ではない。個人や限られた共同体(結社とか同人とか、特定の書き手の信奉者とか)の中だけで、同じ像を共有することになる。
「短詩系用音韻解析ツール おんいんくん」は、全角空白で区切られてひらがなで入力された文字列に対し、シニフィエにはまったく無関係に、子音と母音に分解して集計し、頭韻や脚韻を分析するツールである。なぜ「いんりつくん」ではなく「おんいんくん」なのかというと、平成25年1月26日に行われた現代俳句協会青年部主催による四ツ谷龍さんの講演『俳句は音韻をどう利用してきたか』を拝聴した直後に、激しくインスパイアされてこのツールを作成したからである。
この興味深い講演についての詳しいレポートは、黒岩徳将さんが『韻石が頭に降り注ぐ』という題で週刊俳句に寄稿している。「短詩系用音韻解析ツール おんいんくん」と私が今書いているこの記事は、肯定する部分も、どうかなと感じる部分も含め、四ツ谷龍さんの講演がなければあり得なかったものであることを謝辞として述べておきたい(余談ながら四ツ谷龍さんの講演に先立ち、週刊俳句で50音表をざっくり前半子音、後半子音と分類して飯田龍太の句をこき下ろした田中悠貴さんの記事があったが、ざっくり過ぎる印象を受けた)。
さて、何行か前に「像は悩ましい。それぞれの母音や子音を分類できるところまでは非常に科学的である。しかし、それぞれの分類された音がどういう像を喚起するかの話になると、ぜんぜん科学的ではない」と私は書いた。「おんいんくん」は、あえてぜんぜん科学的ではない部分まで踏み込み、自動評文を作成する。韻律にまったく関心がないグループの方にとっては、冗談としか受け止めてもらえないことだろう。以下、「おんいんくん」によるいくつかの解析例(自動評文)を示し、この稿を終わる。
■「てつをくう てつばくてりあ てつのなか」
=「鐡を食ふ鐡バクテリア鐡の中 三橋敏雄」
「てつ」「てつ」「てつ」とたたみかけるリフレイン、子音による頭韻「t」「t」「t」、母音による頭韻「え」「え」「え」、母音による脚韻「あ」「あ」があいまって、じつに美しい調べが感じられる。なかんずく「て」「て」「て」「て」の執拗な反復には、えもいわれぬ味わいがある。また、全体として無声音k、t、tsの多用による硬質な印象があるといえよう。
■「たましいの まはりの やまの あおさかな」
=「たましひのまはりの山の蒼さかな 三橋敏雄」
母音による頭韻「あ」「あ」「あ」「あ」、子音による脚韻「n」「n」「n」「n」、母音による脚韻「お」「お」「お」があいまって、じつに美しい調べが感じられる。また、全体として極めて母音「あ」が多いことによりのびのびとした印象があるといえよう。
■「こぞことし つらぬく ぼおの ごときもの」
=「去年今年貫く棒の如きもの 高浜虚子」
母音による頭韻「お」「お」「お」、子音による脚韻「n」「n」、母音による脚韻「お」「お」があいまって、じつに美しい調べが感じられる。また、全体として極めて母音「お」が多いことにより腹の底から響くような印象があるといえよう。
■「くろいつぇる そなた おりづる こおる よる」
=「クロイツェル・ソナタ折り鶴凍る夜 浦川聡子」
子音による頭韻「k」「k」、母音による頭韻「お」「お」「お」「お」、子音による脚韻「r」「r」「r」「r」、母音による脚韻「う」「う」「う」「う」があいまって、じつに美しい調べが感じられる。なかんずく「る」「る」「る」「る」の執拗な反復には、えもいわれぬ味わいがある。
■「こんびに の おでん が すき で ほし きれい」
=「コンビニのおでんが好きで星きれい 神野紗希」
子音による頭韻「k」「k」、母音による頭韻「お」「お」「お」、子音による脚韻「n」「n」、母音による脚韻「い」「い」「い」「い」があいまって、じつに美しい調べが感じられる。
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