2013-08-25

【俳句時評】命名をめぐるいくつかの断章 山田耕司

【俳句時評】
命名をめぐるいくつかの断章

山田耕司


まずは、問題。

問 次の漢字を人名として読みあげなさい。

a)「真九州」
b)「愛音羽」
c)「明日」
d)「美凪子」
d)「音」

 *

「きゃりーぱみゅぱみゅ」とは、よくぞ名づけた。

発音しにくい。意味が分からない。つまり、常識的には流通しにくい。しかしながら、であるからこそ、彼女のキャラクターコンセプトはかえって際立つことになる。一度は発音に挑戦したくなって、それなりになんとか発音できると、こんどは人に発音させてみたくもなる。人から人へのくすぐりを名前そのものが内包しているというわけだ。ちなみに、フルネームは「きゃろらいんちゃろんぷろっぷきゃりーぱみゅぱみゅ〈Caroline Charonplop Kyarypamyupamyu〉」。

 *

さて、さきほどの解答

a)   まっくす
b) あねは
c)   トモロー
d)   ビーナス
e) りずむ

とのことである。

参照〈キラキラネームが進化と話題 「真九州」で「まっくす」〉 

 *

通称「キラキラネーム」。

いや、なにもここで「キラキラネーム」そのものに眉をしかめてみせようというのではない。

ただ、これらの「キラキラネーム」と「きゃりーぱみゅぱみゅ」とを同列に扱うわけにはいかない。

一見には、「ふうがわりな名前」ということで括り上げられてしまいそうではあるが、その志向には違いがある。

「きゃりーぱみゅぱみゅ」は、すくなくとも読みあげることができる。そりゃ、うまく口が回らなくて読みこなせない人もいるだろうけれど、読み上げの「門前払い」を食らうことがない。

「キラキラネーム」は、基本的に難読漢字熟語。まず、読めない。強引に読み上げたとしても、それで合っているのかどうか、さっぱりわからない。

ひらがなと漢字という「表記」の問題は、二つの相違点の表層に過ぎない。

「きゃりーぱみゅぱみゅ」は社会の中で共有コードとして機能するけれど、キラキラの方には「共有されたくない」バリアが立ちふさがる。反社会的というよりは、もっと内側に向いたまま閉じているような按配。

キラキラネームが、なにかと批判の対象になってしまいがちなのは、人名としての違和感を禁じ得ないという側面もあろうけれど(光宙と書いて「ピカチュウ」と読む)、それにもまして、名づけたサイド(まあ、通常は両親)の、そのひとりよがりぶりが原因なのであろう。「かわいい」対象には「かわいい」名称を付けたいという目的はあからさまなのであるが、なんせ共有されにくいのである。いうまでもなく、名前とは社会的に共有されるコードであり、それがどんなにヘンテコだと思われるものでも、他者と共有されることが前提ならば、それは許容の範疇におさまるらしい。したがって、この「ひとりよがり」とは、端的なところでは他者が容易に読み上げられないという点において、かつ、存在の手触りとすれば、社会と縁が切れている点において、他者とのつながりを重んじる社会においてイラッとされるわけである。また、これは共時的なつながりへの違和としてでなく、通時的な可能性への侵害として受け取られることも考えられる。「今はイイかもしれないよ、カワイイカワイイで。でもさ、この子だって大人になるんだよ、いつまでもコドモじゃないんだよ」というわけだ。

整理。

きゃりーぱみゅぱみゅ 目的や原理はよくわからないけれど、共有できなくもない。

キラキラネーム 目的はわからないわけではないが、共有しようにも断絶がある。

 *

さて、俳句。

『異熟』

『虚器』

『幺』

これは、現在、私のテーブルの上にある句集の名前。
 
 *

斉田仁『異熟』(西田書店 2300円+税 2013年2月20日発行)

帯に掲載されているのは、この十二句。

産土や泉しくしく湧くことも
仲見世を一本逸れてラムネ買う
愛無き日灰の中からさつまいも
老人も荒野をめざす稲光
あの婆が死んだ死んだと深雪村
冬の浪とんがってくるゴジラの忌
鬼籍の兄まだ竹馬を貸し渋る
投扇興ゆるりと人の世に落ちる
熊撃ちしその夜の浴びるような酒
人権派弁護士として春炬燵
落椿しばらく落椿のかたち
このたびは風の虚子忌となりにけり


「類例なき句群」と帯には記されているが、類例との断絶よりは、共有知としての季語によりそいながら、むしろ典型をこそ志向しているのではないかという気配がうかがわれる。典型を志向するには、個の屈曲を排除してゆこうとする配慮が施されるわけで、そのような傾向において、次のような句が並んでいることも見落としてはならないだろう。

金魚から糞が離れてゆく薄暑
二つありひとつは古き竹夫人
七夕やビーカーで煮る夜の水
括りたる縄もろともに菊を焚く
錦秋や一升瓶に蹴躓く
錠剤を飲むためだけの冬の水
煮凝りのひしと固まる火宅かな
人日のはや人は人犬は犬
ヨーヨーが戻って来ない春の暮


俳句作品とは、もとより、言葉や考え方を〈共有〉することでこそ、成立するものであるという考え方がある。

そうした考え方に基づけば、言葉は、一般的に流通している内容よりもさらに一歩踏み出した「風情」のようなものまで規定されてしまうことがある。「歳時記」における「季語がもたらす風情」への言及が、たとえばそれにあたる。

知の共有領域としての「季語」を拠り所としながら、なおかつ、その「季語」がもたらす風情までも〈共有〉するのだとしたら、それは、共有財産を借り出しては原資が目減りしないように返却するような営みとなることであろう。作家の果たす役割とは、借りてきた言葉に、それにふさわしい運動をさせ、個別の人生の灰汁をなるべくしみこませないように工夫すること、ともいえるだろうか。

これは、斉田作品への批評ではない。俳句形式にかかわる上で、作者や読者が多かれ少なかれまきこまれざるをえない、つまりは一般事象として想定しているのである。

そうした「共有知」との距離の取り方のバリエーションをどのように見定めるのか。

俳諧連歌においては、知を共有していることそのものが、重要な骨格になっていたことだろう。

俳諧連歌と近代以降の句とを相対化させるイキオイで強引に話を広げるならば、すなわち、俳句には、知の共有そのものを疑い、何らかの手段で超越してしまうことがあらかじめ内包されていた、ともいえるわけである。

大切になるのは、その度合い。

俳句のおもしろくも恐ろしくもあるところは、経験年数や人生経歴の軽重にかかわらず(「個の内面」における「苦悩」がいかばかりのものであるかなどとも直接的な関係はなく)、「いい句」を掴んでしまうことがあるところ。これは、まず、定型もふくめた「制限」があることに起因するわけであろうが、この「制限」とは、捉えなおせば、共有知の一端でもある。それが「なんだかわからないけれど従わざるを得ないもの」として立ちはだかるのか、他律として客体化されつつその則を越えないように配慮されているのか、あるいは、共有知は共有知として自律的な方法を見いだそうとするのか、そのような「共有知」との距離の取り方こそが作家の個性として立ち現れてくるのが、俳句という表現を読む上でのオモシロさのひとつなのではないだろうか。

「最近〈子規以前(=江戸後期から明治初期にかけての短期間)における月並俳句の存亡」といったことに強い興味をおぼえている。」

「俳諧の持つ大衆性。庶民の小さな世界が時代の大変化に翻弄されながらも、しぶとく生き残ってきたことの不思議。」
(「あとがき」より)

こうした斉田の言葉の奥には、共有知をただ借り出すだけではなく、その原簿のチェックをしようという積極的な意欲が反映されてる。共有知を重んじ、とはいえ、自らの営みに対して客体的な視点を持ちながら、なお、そのよりどころとすべき事項を通時的に見とどけようとする姿勢は、そのまま句集の名前についての説明文に重なるところがあるといえよう。

「大方、聞きなれない言葉だろうし、薄気味の悪い語感ともいえるが、れっきとした仏教語である。原典にある梵語の、意訳というか、いま流行りの言葉でいえば、超訳というか。発音して読んだときの響きが気に入って、題名とした。」(「あとがき」より)

「三十年ほど前だったか、(中略)小さな句集を上梓したこともあった。」

「その頃を、たとえば未熟とするならば、今は異熟とでもいうべきか。」


 *

高橋修宏『虚器』(草子社 2500円+税 2013年8月1日発行)

では、まず、句集名へのコメントを。

「すでに二十一世紀を迎えて十二年余りが過ぎ去った。この間に次々と生起した歴史のテクストに記されるような大きな出来事によって、それまで見えづらかった何ものかが一気に露出してきたことを感ずる。その何ものかを、〈原始〉的とも〈古代〉的とも呼ぶことも可能であろうが、けっして考古学的なノスタルジーに回収されるものではない。あくまで〈現在〉なのだ。『虚器』という句集名は、そのような想いの中から名付けたものであるが、わが列島弧に連綿と受け継がれつづける空虚なる中心へ、さらには、俳句形式という器それ自体への想いも同時に込めている。」
(「後記」より)

〈現在〉というものにこだわるのは、「今しか考えていない」というわけではない。たとえば〈神話〉という文脈を、〈現代〉をステージとして解き放とうという姿勢であるようだ。

国生みのごと御不浄の初明り
綿津海に着たきりの姉奉る
天文や枯山水の爆心地
うすものにうすもの襲ね被爆国
空爆のあとを南京玉すだれ
冬の虹この世はなべて爆心地


「わが列島弧に連綿と受け継がれるつづける空虚なる中心へ」ということで、これはもう共有知としての「日本」を対象とし、そうした「聖」と日常という「俗」との交差点において見届けようとしているのであろう、なるほど「国生みのごと御不浄の初明り」が冒頭の句でもあり帯にもドンと記載されているなんて、まさしくその実例なのだろう、と思って読み進めた。

王蟲その死後膨張よ銀河まで

おや。

王蟲とは、宮崎駿による漫画およびアニメーション作品『風の谷のナウシカ』を由来とするものであろうか。ううむ。神話を現代に解き放とうとするのであるが、ひょっとして、それはむしろ、〈神話〉のほうを「俗」として利用しながら〈現在〉を情報として解体する作業なのではあるまいか、などと思うにいたり、すれば、このような句たちにも出会うことになる。

泳ぎ着くすもももももも〈以後〉の影
深雪晴精子億兆玉砕し

「すもももももも」は早口言葉でもあろうし、「泳ぎ着く」と示されることを併せると、漂着する「えびす」にも、桃太郎的な超常的存在の暗示としても受けとめられるキャッチなフレーズとなる。その共有されている知の手応えのイキオイに便乗する形で、〈現在〉は「〈以後〉の影」として示されている。示されてはいるが「〈以後〉の影」というフレーズは、作者のナマの批評性が露出してしまっているようでもある。なるほど、たとえば「季語」に適度に運動をさせるためのステージとしてそっと添えられる日常ではなく、もはやこの時代こそがあらたな神話として情報化されうるのだと筆者が認識してこその〈現在〉ということになるのだろうか。「玉砕」という語には、歴史的文脈にてではなく、あえて俗めいた用いられ方をすることで、「深雪晴」が現実的に受肉されたものとしてではなく、情報として漂ってしまっている観がある。この漂流感こそが、まさに現代的と言えば現代的なわけでもあるが。

まあ、謎ときめいたことは、さて措き。

うまいこと付けたのが『虚器』という名前。

作品が志向しているところを、まさに示している。

ときに、一句はそのままなんらかの喩としてたちあがり、ときに、劇中劇のような象徴化された表象として姿をあらわす。

作者は、虚としての共有知を盛り込み、組み合わせた意味回路がその句の中で循環する仕組み(器)として、俳句形式を捉えているのであろう。

火を妊みおり圏内のかたつむり
くちなわのくるしく君子くねりけり
花の蔭濡れし骸を門として
黄沙降る柩は王を入れかえて
影なくば炎昼の木の伐られけり
炎立つ歌劇場より油蟲


情報の器には、先行する作品のおもかげさえも盛り込まれるようである。

太古より塔を吹き割り鳥来たる
未来より滝を吹き割る風来たる
  夏石番矢

ひとりよがりの「キラキラネーム」は、つまり通時的な配慮に欠けたまま「現在」の感情を満たすことで与えられるとされる。『虚器』とは、「現在」にこだわるとしつつも、それはたんに俳句史という時系だけではなく、現在を語るための情報を盛り合わせる意図において、「キラキラ」とは対極のネーミングとなっていよう。ただし、「虚器」=「俳句形式」と位置づけ、つまり、「これぞ俳句!」とでもいうような〈ど真ん中〉感を醸し出すには、〈情報の盛り合わせ〉という仕様はなかんづく物足りない。「未来より滝を吹き割る風来たる」にびしっと備わる〈句の身体性〉というか、情報の組み合わせであることを超越する〈受肉された知〉というか、そこらへんの手触りが恋しくなろうというものだ。

 *

志賀康『幺』(邑書林 2500円税込 2013年8月10日発行)

表紙には「いとがしら」というひらがなが書いてある。

書いてなければ、なかなか読めない。

おお、これは、「キラキラ」要素かも。

句集名の『幺』は、その部首名としての読みをもって、「いとがしら」とお読みいただきたい。『幺』は糸の先端の象形で、「かすか、ちいさい、くらい」のような意をあらわすと理解している。「幻」「幼」「幽」など、これを含む文字の意味合いからも、『幺』の気配は推し量られよう。

強い声を発する喉よりも、よく利く耳を持ちたい - そんな思いを深めつつあるものとして、「幺」なる一文字の気のようなものを、身のうちに感じてもいるのだ。〉(「後記」より)

なるほど、その文字本来の読み方であれば、「キラキラ」要素ではない。共時的にも通時的にも、他者を疎外しようというわけではないのだ。しかし、ほのぼのと「そうカンタンに受け取られてなるものか」という意地のようなものを感じないわけでもない。そんな予感は、句を読み進めるうちに現実のものとなる。

句集の帯に掲載されている十二句。

身体や昨日野菊を恵まれし
鷹ひとつ全山鷹の雨となる
小川辺で日は美の亜種に遭わんとす
産土神(うぶすな)は出し投げばかり篠(ささ)筑波
海見えて人は容れもの工むらん
浮草を沈めんとして力抜く
鼠返しにふと一対の只心
梢よ一度は動かぬ前の風である
釣針を磨くに遠鳴き砂をもて
百日の大垂氷こそ養父なれ
鼠(ね)の神がいつも船乗りである秋風
身のうちで大きく移す水がある


わかりやすいか、わかりにくいか、と聞かれれば、まあ、わかりにくい。

しかし、俳句にとって「わかりやすい」とはどういうことなのだろうか?

「知の共有そのものを疑う」というのが俳句に内包されている宿命であるとするならば、それをずばりと体現しようとする作品があることも想定できるわけで、まさしく、それを目の当たりにする経験のひとつになる句集ではある。

身体や昨日野菊を恵まれし

これは

荒野菊身の穴穴に挿してゆく 永田耕衣

へのオマージュ。

梢よ一度は動かぬ前の風である
これは

楡よ、お前は高い感情のうしろを見せる  加藤郁乎

この加藤郁乎の作品と同じ空気を呼吸したいと願いが込められている。

などと系類をそれなりに想像してみたとしても、状況は大きく変化しないだろう。

言葉たちは、共有知の大きなフトコロに還元されることを拒みながら、その拒絶をこそ目的としつつ、自律的な隊列を組んでいるようにも見える。およそ「目的なき合目的性」とでも呼ぶべき余韻なども発生するようで、こうなると、「いったいこの句は何を伝えようとしてるんですか?」という問いかけは、むしろ、アートとしての純粋さを際立たせるための借景のような存在になってしまうかもしれない。

これは命名という観点からずれて、句そのものの扱い方への言及となるのだけれど、こうした句群を受け取るにあたり、どこらへんのセンサーを用いるのがふさわしいかと言えば、そりゃ「キラキラ」ではなくて、「きゃりーぱみゅぱみゅ」傾向ということになるのだろうか。

書いてあることが読めないと言う拒絶、それこそ、共時的にも通時的にも他者を疎外しようという拒絶、と、そこまでは断絶していない。「目的や原理はよくわからないけれど、共有できなくもない。」というテイスト。それならば、「きゃりーぱみゅぱみゅ」的傾向というわけである。

もちろん、きゃりーぱみゅぱみゅには、視覚的にも聴覚的にも訴える回路があり、その総体のタグとして名称が受け取られていることを忘れてはならないだろう。志賀康が、同様に視覚的にも聴覚的にも読者に訴えてくるということはないのであり(ですよね)、言語という知の領域に限定された存在は、いっそう虚ろなほの暗さを抱え込むことになるだろう。

ここまで来ると、この句集の名前がいかに内実を反映しているかをあらためて味わいたくもなるというものである。

 *
 
命名とは、むずかしいものである。

他者となにをどこまで共有しようとするのか、あるいは、共有しないようにするというのか、そのあたりが、しみじみとあらわれてしまうからである。そして、おおむね、自分自身では、そうした自己の姿勢を見届けがたく、それがそのままあらわれてしまうからでもある。

 *

人に遣る子猫に仮の名をつけて  斉田仁 『異熟』より



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