気仙沼紀行 〔後篇〕
近 恵
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7月28日6時、滝のような雨音に目覚める。この日は早いうちに島を出て9時半受付開始の俳句大会会場に向かう。雨は7時過ぎにはあがり、青空が見えている。海霧もすっかり晴れ、海も昨日よりもきれい。連絡船に乗り込むと、港では福来旗(大漁旗)を振ったり手を振ったりして、島の人たちが見送ってくれる。乗客も盛大に手を振り「ありがとう!」「また来るねー」などと声をあげている。離岸するときに船が汽笛を何度か鳴らした。別に悲しくもないのになぜか鼻の奥がつーんとなる。船って不思議だ。餌をあげる人がいてカモメも沢山ついてくる。船首側のデッキに出て風を受けながら、ちょっとだけ当日出句の俳句を考えるも断念。海も空も風も気持ちよすぎる。ここで清人さんの車のタイヤがパンクするというハプニング。車は気仙沼の友人のやっているガソリンスタンドに預け、翌朝タイヤ交換をして出発ということになった。
時間があったので昨日到着したメンバーは「第18共徳丸」を見に行き、残りは港付近を少し散策。ハマナスが大きな実をつけている。まだ小さな木なので津波の後植樹したものであろう。海沿いにあった遊歩道は、あの地震の時に大きくゆがみ、割れて崩れていて、まだそれは手つかずになっている。
▼桟橋へのタラップも海に落ちたままだ。
港の前にあった大きな立体駐車場が取り壊されていて、随分と見晴らしが良くなっている。けれど辺りほとんど昨年と変わらないように見える。所々盛り土をしているところが見える。湾の反対側は津波の際に火災にあったところで、海沿いにドックやらなにやらずらーっと並んであった建物はなく、それでもいくつかのドックは再開していた。船はそんなに沢山入っていないが、サンマ漁の支度をし始めている船がいる。そろそろ秋刀魚漁の季節が近づいているのだ。
魚市場は早々に再開したが、加工場はまだまだ。沈下した地盤に土を盛ってからでなければ建物も建てられないのだ。新聞で、気仙沼市では何トンとかの土盛りをすることが決定したという記事を見る。まだそういう段階なのだ。港に仕事場が無ければ人は出て行ってしまう。
全国に13か所ある、水産業の振興に特に重要であると政令指定された漁港のひとつである気仙沼港は、三陸にある同様の3か所の港に比べて復旧が遅れている感じが否めない。しかし、港近辺だけでなく町全体を均一に復旧していこうという方針であるらしく、それもどちらがいい方法なのかは今は解らない。それでも、どこの被災地でもやはり完全に復興までたどり着くのは10年では足りないのではないかと、これは先々週の宮本佳世乃さんのリポート「いわきへ」を読んでいても思うことだ。
程なく大会受付の9時半になり、会場のホテルへ入る。
記念講演の開始まで45分。皆、当日出句の2句をひねり出そうと必死。今回の選者は黒田杏子(「藍生」主宰)、柏原眠雨(「きたごち」主宰)、高野ムツオ(「小熊座」主宰)、鈴木八洲彦(「俳句饗宴」主宰)、白濱一羊(「樹氷」主宰)、坂内佳禰(「河」同人)の6氏。毎回そう思うのだが、地方の一俳句大会にしては豪華な顔ぶれである。大会に掛ける意気込み、俳句に向かう情熱をこんなところで感じる。事前募集句は1734句。選は既に前日の新聞に掲載されていて、一平さんの句が坂内佳禰特選に入っていた。秀逸や佳作にも今回参加のメンバーや、参加はしないが投句だけした俳句仲間の句も多く見かけた。私もかろうじて佳作に一句。
▼選者の皆さん。
俳句大会は黒田杏子の講演に始まり、事前募集句の表彰、昼食を挟んで当日入選句の披講講評と表彰、と進む。当日の投句は108名。入選句にも東京から押しかけたメンバーの句が続々と入り、特選、秀逸、佳作と名前を連ねた。もちろん地元からの参加者の句も、力強く、時に生々しく実感に溢れ、思いの溢れた句が沢山あり、参加する度に俳句の奥深さを感じさせられる。
▼大会長の菊田島椿氏より表彰状を受け取る一平さん。父から子への表彰の景というのは世間ではめったにみられない光景であるが、この景色を見るのは実は私は三度目。
◆俳句は夏炉冬扇の遊びというが、震災後も復活した気仙沼俳句大会のパワーを見て、命懸けの遊びなのだと思う。(伊藤伊那男)
◆夏特有の海霧と集中豪雨にたたられてしまいましたが皆さんが力作を出して特選。秀句・佳作に選ばれたんでホッとしています。(菊田一平)
◆初訪問の気仙沼は、被災地の号泣のような豪雨だった。復活への熱意が俳句の情熱とつながっていると実感。わが俳句の甘さを冷たい海が教訓となった。ありがとう!気仙沼。(三輪初子)
◆生きてゐる。私の中にゐる人達も、私が煙になるまで生きてゐる。それを実感した大会でした。「夏暁の海より酸素生きてゐる」(池田のりを)
◆雷雨、冠水、土砂崩れ。徹夜でたどり着いた気仙沼。海の幸と牛タンをたらふく食い、美酒を浴びるように呑む。翌日は特選、秀逸とりまくり。恐るべし近恵、朝比古。(飯田冬眞)
※徹夜組の他に、伊那男さん、くろえさんも特選をいただいたのでした。(近恵補足)
大会も無事終了し、もう一泊する数人を残し帰路につく面々。どうやら帰りの新幹線の中では窓際にビール缶を並べての大宴会が催されていたようである。
残った数人のうち6人は、大会の実行委員の皆さんに混じって選者を囲む懇親会へ出席したのである。これがまた楽しい宴席で、最初は真面目に挨拶なんぞをしているのだが、そのうち余興が始まると、選者も巻き込んでの大漁唄い込み(斎太郎節)。踊れや歌えやの大盛り上がり。来年来るときには大漁唄い込み、全歌詞覚えておきます!と心に誓ったのである。
▼もちろん写真に写っていないところで
6人も法被を着て踊っているのです。
◆気仙沼は俳句だけでなく、芸も達者。懇親会のノリは殆どベテラン。今年見られなかった青い海で泳ぐためにまた来年行きます。(太田うさぎ)
懇親会が終わり、6人は地元の同級生と合流し、むらさき市場というこれも復興屋台村のひとつに出かける。近くに蔵付きの家があるという女性の自宅に、蔵を見せてもらいに寄る。立派な梁と、二階の光採りの窓から格子状の床を通して一階に光が届く構造。ここも津波で水が上がったそうだが、ここをどう再生利用するかを家主である女性は思案していた。
この夜の宿泊先は、到着した朝に朝食を食べさせてくれた同級生の家である。母屋に離れがあり、今は母屋に夫婦二人で暮らしているので、離れに泊めていただけることになったのだ。ここで更にビールを流し込み、カラオケを歌い、お風呂をいただき、朝食までいただく。至れり尽くせり。本当にお世話になりっぱなしなのである。本当にありがとうございました。
朝9時半にスタンドへ行くというので、その前に岩井崎という観光名所に寄ることにした。ここも津波の被害を受け、松林はなぎ倒され、建物も大破したそうだ。行く途中には瓦礫処理の鉄屑のスクラップ場や、何かしらの処理場がいくつかあった。着いた朝のようにこの日も霧が深い。
岩井崎は松林を抜けると、その先に潮吹岩のある岩場がある。潮吹岩は地震の影響で地形に変化があったのか、おそらく瓦礫も大量に流れ込んでいたのであろう。やっとまた潮を吹くようになったと昨日聞いた。確かに以前見た時のような勢いでは吹いていない。複雑に浸食された岩場の磯は、瓦礫の撤去も容易ではなかったはず。以前あった展望所のコンクリの階段の崩れたものなどが磯にまだごろりと横たわっていた。それにしても今日も海霧がすごい。水平線どころか10メートル先がやっと見えるくらいである。
▼岩井崎の磯場と海霧。左側にコンクリの塊が転がっている。
そんな中、奇跡的に残っていた、「第九代横綱・秀ノ山雷五郎像」。それと、龍の形に見える松の古木。この松が残っていたのは驚いた。そして、嬉しくもあった。
▼全体的にうっすらと白いのは海霧のせい。
晴れていれば龍の後ろには青い海がある。
◆初めて海霧を見た。湧き上がるというか、立ち込めるというか、這い上がるというか……。驚き、そして怖ろしくなりましたね。(戸矢一斗)
途中、気仙沼線に乗って帰るという一斗さんを駅で降ろす。と言っても、ここはまだ線路が復旧していない。途中の線路が津波で流されたりして、いまだ不通のままなのだ。線路の跡にバス専用道路を作り、途中の復旧した駅まで乗合バスが運行している。BRT(バス高速輸送システム)というこの方法は、この三陸縦貫鉄道の被災した路線のなかでは断続的に存在し、全部で21キロ以上に及ぶ。
▼手前がBRT専用道路。バスはここで一般道に合流する。
交差点を挟んだその先は草に覆われた線路。
一斗さんを降ろした後、スタンドに寄り、タイヤ交換の間二階で休憩していたのだが、ここでもハプニングが起こる。しかしそのことに気付くのは東京に着いてからのことであった。
無事タイヤ交換を済ませ、来た道を東京へ向かう。雨で増水していた川は、草がなぎ倒されていたものの、水はもうすっかり引いている。途中の道の駅に寄ったら、燕の巣があり、まだ口の中の黄色い雛が顔を出していた。頭の天辺付近には、まだ産毛のようなものがぱやぱやして見える。こんな巣がいくつかあり、激しく癒される。
▼夏燕というにはまだ幼い。やはり東北の夏の到来は
東京に比べるとかなり遅い。
平日なのでさしたる渋滞もなく順調に車は東京に着く。駅で降ろしてもらったとき、一平さんが「俺の荷物がない!」と言い出す。着替えなどを入れたリュックがないというのだ。…そう。その頃リュックは朝にタイヤ交換をしたスタンドの二階の薄暗がりで孤独を満喫しつつご主人の迎えを待っていたのだ。
震災の前の年に訪ね、俳句大会に参加し、地元の方々の人懐っこさ、暖かさに触れ、美味しいお料理や美しい海、緑に酔い、いいところだけしか見えずに毎年来ようと思っていたのだが、思いもかけない悪夢の大津波。それぞれの状況や立場で、外の人にはわからないいろいろなことがあるとは思うが、それでも逞しく生きている地元の方々を目の当たりにし、毎年来ようと心に決める。何もできることはないけれど、知る事、それを誰かに伝えていくことだけでも、何か役に立てることに繋がるかもしれない。なにより、そういう現実があるのだということを、被災地から離れて生活している自分が少なからず他人事ではなく現実のこととして胸に受け止めるということが大切なことなのだとつくづく思った、そんな今回の気仙沼でありました。
最後に、今回の紀行文を書くにあたり、コメントをお寄せ下さった皆様、写真を提供してくださった皆様、ご協力を感謝します。
(了)
4 comments:
気仙沼のイベント、地元の方と熱く実行されたのですね。2回にわたる報告記、注目して読ませていただきました。
「何もできることはないけれど、知る事、それを誰かに伝えていくことだけでも、何か役に立てることに繋がるかもしれない」
ほんとうに、まずはそこからですね。次がどうなるか、誰にもわかりませんが、小さなことでもやれることはやりたいものです。
四ツ谷龍さん
ありがとうございます。いわきも行きたいのですが、この時期は気仙沼とちょうど重なっているのですよね。
佳世乃さんのリポート、また、昨年作成した作品集も読ませていただきました。また山崎祐子さんから直接話も聞きました。
外から行った私達が知る事ができるのは、現実のほんの一部でしかないと思います。力も無いに等しい。それでも小さなことでもやれることがあれば、と私も思います。
詳細なレポート、楽しく読ませていただきました。
>地方の一俳句大会にしては豪華な顔ぶれである。
私は一般参加者の豪華さに驚かされます。
選者席と交代したほうがよさそうな顔ぶれがずらり。
気仙沼俳句大会は、不思議な俳句大会です。
白濱一羊さん
その節はありがとうございました。
>一般参加者の豪華さに驚かされ
それだけ気仙沼に惹きつけられる何かがあるということなのでしょうね。特に海の幸とかが…
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