奇人怪人俳人(11)
抒情派マルキスト・古沢太穂(ふるさわ・たいほ)
今井 聖
横浜プリンスホテルでひらかれた「「古沢太穂」別れの会」で、太穂さんと同じ楸邨門で1940年の「寒雷」創刊以来六〇年の友人である金子兜太さんが述べた弔辞が忘れられない。
戦後すぐの頃、「寒雷」の句会の帰りに東京のはずれで飲んで電車が無くなった。兜太さんが「宿を探そう」と言うと、太穂さんが「俺にまかせておけ。タダで泊れるところがある」と応えてどんどん歩いていく。
どこに行くのかと思いながらついてゆくと、ようと手を挙げながら警察署に入った。そこには太穂さんの顔見知りの刑事がいて二人で留置場に泊めてもらったというエピソード。
筋金入りのマルキスト太穂さんらしい話である
●
古沢太穂、1913年富山市生まれ。生家は芸妓置屋。
幼くして父が亡くなり横浜に出る。1938年、東京外語専修科ロシア語学科終了。直後に結核で療養所に入所。そこで俳句を始め、加藤楸邨に師事。'40年の「寒雷」創刊に参加するに到る。
その後、赤城さかえ、栗林一石路、橋本夢道、石橋辰之助ら新俳句人連盟の俳人たちと親しく交わる。また内灘試射場反対闘争への参加、松川事件対策協議会の副会長を努める。
1955年には新俳句人連盟の委員長に推される。ソ日協会の文化交流としての訪ソ団団長。共産党機関紙「赤旗」にも頻繁に執筆している。「古沢太穂」全集年譜には特に記載はないが日本共産党の党員であったことは周知のことである。
不遇の少年時代を送りさらに結核療養を余儀なくされた英才が共産主義に目覚める。しかも外語のロシア語科を経てというのは古典的マルキストの一典型とも言える。
入党の時期はいつだったのだろう。兜太さんの発言にあるような経験を太穂さんがしているところから類推すると太穂さんは1955年以前からの党員。共産党の非合法活動は1955年で終るのだ。それ以前からの党員がどういう経緯で党の合法活動への決定を支持したのか。そのことは小論の内容と関ってくる。
●
「寒雷」というのは面白いところで創刊以来いつもさまざまな個性的な作風の俳人が楸邨の回りを囲んだ。
戦前から戦後にかけては、太穂さん他、金子兜太、森澄雄、安東次男、沢木欣一、田川飛旅子、原子公平、和知喜八、前田正治、寺田京子等々。僕が句会に通い出した昭和40年代でもその雰囲気は続いていた。
同人会に太穂さんが久しぶりに顔を見せると会長の秋山牧車さんがうれしそうに迎える。牧車さんは元大本営参謀。旧軍中枢の元軍人と共産党の闘士が談笑している。
作風は百八十度違う兜太さんと澄雄さんが座談会でやり合う。兜太さんと安東次男さんなど誌上座談会で「テメエ」とか「下手な句を作りやがって」など、読んでいる側がハラハラするような応酬である。
「あのやりとりそのまま載せたんですね」と僕が聞くと森さんのあとの編集長だった平井照敏さんが苦笑していたのを思い出す。飲み会では「即物派」の田川飛旅子さんに「花鳥諷詠派」川崎展宏さんが突っかかる。
師に対しても例外ではない。1982年に出た楸邨全集の第一巻の栞で楸邨作品について兜太、澄雄が対談している。〈十二月八日の霜の屋根幾万〉の句を挙げて、兜太さんが「どうしてこんな思いつめた下手な句を作ったんだろうか」「この句を見たとたんがっかりした」
楸邨句〈天の川鷹は飼はれて眠りをり〉を森さんは評価しない。「『沙漠の鶴』は九〇〇句余りの句が入っているけどいい句ということになると非常に少ないな」師の全集の中に挟む栞(月報)でこれである。こんな調子の座談会は数回続く。
いくらなんでもこれだけ先生をくさすのはどうかと、見かねた秋山牧車さんが注意すると「先生はどう思っているか聞いて欲しい」と二人が応じた。牧車さんが楸邨に聞くと、「その座談会に是非参加したい。僕にも一言言わせて欲しい」と言ったとか。そんな逸話が残っている。
こんなあけすけな師弟関係は空前絶後であろう。
1995年、96歳で亡くなられた牧車さんのご葬儀に太穂さんと和知喜八さんの二人を案内する役を僕が承り、二人の電車の接続駅で待ち合わせをすることにした。このとき太穂さん81歳、和知さん82歳。
待ち合わせの駅に太穂さんが先に着いたが、定刻を過ぎても和知さんがなかなか現れない。和知さんは足が悪いのだ。ようやく現れた和知さんを太穂さんが叱った。
「時間を守らなきゃだめじゃないか」
「しょうがないだろ。この足なんだから」
杖を突き足を引きずりながら言訳をする和知さんに向って太穂さんは「足のせいじゃないよ。あんたは昔から時間にルーズだ」と容赦ない。
20代から「寒雷」で切磋琢磨し一緒に同人誌も出したことのある「親友」のやりとりである。高齢の二人が子供のように見えたのだった。
そもそも太穂さんと和知さんはことのほか仲がよかった。
太穂作品
ロシア映画みてきて冬のにんじん太し
白蓮白シャツ彼我ひるがえり内灘へ
ボンベより顔長い馬工区曇る
蜂飼いのアカシアいま花日本海
子も手うつ冬夜北国の魚とる唄
喜八作品。
霜くるか熔鉱炉一日一日赭し
焼け工場の鉄管の中冬蜂死ぬ
勤めいやな朝まつこうから燕の白
ちちろほそる夜や屋根赤い貯金箱
梅雨産み月硝子の外から蛾がはためく
二人の句の内容は一句一句異なるから、たとえば労働実感がテーマというような括りで両者の共通性を論じるのは乱暴な論議のように思うが、決定的に共通しているところがある。
それは定型の枠をきっちり使うこと。ときにははみ出すほどに。枠に詰め込むだけ詰め込むという書き方。これは共通。俳壇からは腸詰俳句という揶揄も頂戴した。
ここには俳句という器に対する楸邨系の根っこにあたる考え方がある。
俳句は短いからものの言えない表現形式だという至極当然に思える形式観に立って、言えないのならどう「言わずして言うか」という論法から、季語の本意を中心において「主観」を抑制するという詠み方が生じてくる。
内容で勝負と言ってもそもそも小太刀に大刀と同じ働きを期待するのは無理。だから小太刀には小太刀にあった流儀が必要となるという考え方の上に立っている。
しかし、いわゆる諷詠派はそういう通念の上に乗って、意味を詰め込まず抜いて流していく詠み方を踏襲してきた。季語は必須、その上切れ字を入れて副詞のひとつも付ければもうあとは五音くらいの枠しかない。季語、切れ字だけの話ではない。つながりが慣用的な成句や複合動詞を手拍子の付くようにリズム本位で出してくる。たった十七音しかない形式でさらに言葉を流すのだ。それが「諧謔」や「飄逸」や「枯淡」に直結してきた。
本当に俳句は「言えない形式」だろうか。
短いから言えない。じゃあ、言えるか言えないか、最初から見切らずに思うことを言おうとしたことがあるのか。
言えない形式だと見切る人は、ほんとうは言えないのじゃなくて言うことがないのではないか。
言うことがないのに作ろうとするから使い古された俳句的情緒をテーマにして言い回しだけの「技術の妙」を競うことになる。
詰め込んで冗長に詠えということではない。一文字、一音を緊張させて意味を追い詰めて形式の枠の隅々まで埋めて、その結果、「ああ、やっぱり言えなかった」と空を仰いだことがあるのか。
二人の句はそう言っている。
太穂さんに「和知さんと句風が似てますね」と言ったことがある。太穂さんはムッとして応えなかった。仲良しだけどそれはそれ。句は違うよとお互いに矜持があったのは当然である。
●
太穂さんははるかに年少である楸邨門の僕にいい印象は持っていなかったようだ。というより最悪だったのではないかと思っている。
昭和63年、僕は一票差で現代俳句協会賞の次席となった。受賞は金子皆子さんと柿本多映さん(僕は、今は俳人協会所属だが当時は現俳協の会員だった)。
選考委員の一人であった寒雷編集長久保田月鈴子氏さんから残念でしたという知らせが葉書で届き、その脇に憤然とした調子で「理由は太穂くんに聞いてください」とある。太穂さんもまた選考委員の一人であった。
何のことやら解らなかったがやがて「現代俳句」誌上に選考経過が詳細に発表になったときその理由が判明した。予選の段階から、複数連記のときですら太穂さんは一貫して僕を外している。選後の感想からも一切省かれている。黙殺である。
嫌われたものである。
「太穂君に聞いてください」の意味が飲み込めた。
「聞いてください」と言われてそのとおりにするほどの勇気は僕にはなかったが、自分なりに太穂さんに「嫌われた」理由を考えると、それは大いに思い当るところがあった。
「寒雷」の会合があると僕と太穂さんは帰り道が同じであったため、ご自宅のある京急屏風ヶ浦付近までずっとご一緒することが多かった。僕は洋光台、すぐ近くである。
学生時代入った寮が過激派のアジトだったこともあり「反代々木」の洗礼を受けた僕は「代々木」の太穂さんによく議論をぶつけた。
日本共産党は戦前の結党以来非合法活動の組織であったが1955年の六全協(日本共産党第六回全国協議会)で武装闘争路線を捨てて(議会闘争を通じて幅広い国民の支持を得られる党)への転換を決定する。
革命を捨てて合法的な議会政治に参加するということ。それは一方で革命路線を信奉していた党員への裏切りに当たる。暴力を捨てて議会制民主主義に転じるというと聞こえはいいが、要するにプロレタリア革命を放棄するということであり共産主義の解釈を修正することになる。
新左翼と言われる各派はそこをついて六全協以降の日本共産党を修正主義、またはスターリニズムという名で呼んだ。一方で武力革命路線を主張する新左翼を日本共産党の側はトロツキストと呼んで双方は激しく対立し今日に至っている。
芸者置屋の子として生まれ幼くして父に死なれ、職を転々として苦学の末東京外語専門学校(今の東京外語大)でロシア語科を選択した太穂さんはレーニン率いるボルシェビキによるロシア革命のような「革命」を夢見たのではなかったのか。だから留置場に泊れるような非合法活動の青春を送ったのではなかったのか。
太穂さん、あなたの志と今の党の現状は矛盾しないのですか。
今は退職してしまったけれど僕が三十年も在職した職場の労働組合は日本共産党系の組織であり組合費のかなりの割合が党組織に上納されていた。もちろん合法的に。
職場に新人が入ると必ず組合加入へのオルグと党の機関紙をとることを強く勧められる。入らないと職場の人間関係がうまく行かないようなことをほのめかされる。
管理職から攻撃されても加入しないと助けてやらないぞ。それはそうだろう。組合というものの本義でしょうから。
組合を傘下に収める党への動員やら上納金やらに与するか、資本の「忠犬」として上目遣いに生きるか、新人は究極の選択を迫られる。まあ、どちらにしても巻き上げられるのだ。
太穂さんの信奉する党はどうして幹部に帝大出ばかりを集めた「知識人」が主導する官僚主義政党なのか。委員会決定を徹底するということなのだろうが、どうして金太郎飴のようにまったく乱れなく党員の主張が一致するのか。
学生時代に日本共産党の青年組織民青(民主青年同盟)を揶揄した数え唄に「三つ出たほいのよさほいのほい、民青の女と姦るときにゃ、ほい、党の許しを得にゃならぬ」というのがあった。下品な春歌だがすべてを党が規定してそれに全員一致で従うことを揶揄した喩えだ。何でもかんでも綱領や既定方針に沿ったかたちですすめねばならぬ、それは彼らが作る「文学」でも同じこと。というような固定概念が僕の中にあった。
例えば党員が俳句を作るとき、憲法解釈や情況分析に党の方針と逸れることを作品化できるのか。党決定からぶれない範囲で俳句を作る。そんな馬鹿げた「文学」がありましょうか。
僕はそんな議論を延々と太穂さんにぶつけた。太穂さんは憮然として聞いていた。
「しょうがない奴だ」と思われたのだろう。いな、もっと厳しく「ダメだ、こいつは」と思われたに違いない。それが僕の作品に対する「黙殺」につながったのだろうと僕は推測した。それは、まあ、いわば自業自得だった。
●
しかし後年何度かお会いするうちに次第に優しい眼差しも向けてもらえるようになった。
楸邨逝去の後、太穂さんは僕を磯子の割烹に呼んでご馳走してくださって、当時「寒雷」の編集部にいた僕にいろいろと示唆を与えられた。内容は「寒雷」の新しい組織人事についての提言だったが、これについて僕は太穂さんの意見を聞き入れなかった。
太穂さんはまた「しょうがない奴だ」と思われたかもしれない。僕はしかし、太穂さんが自分の結社「道標」のこともあるのに、「寒雷」のことをそこまで気にかけてくださっているということに驚きかつ感動したものだ。
うれしかったのはその後に僕が脚本を書いた映画「エイジアンブルー浮島丸サコン」を観てくださったこと。或る時「見たよ。良かった」と言われた。僕は、多忙な太穂さんが黄金町の小さな映画館まで足を運ばれたことに感激した。
「街」にも原稿を頂いた。「同人欄・十句選」をお願いしたら快諾の返事をいただいた。原稿が届くと九句しかない。脇に「九句しか選べませんでした」と書いてあった。太穂さんらしいやと僕は苦笑したものだ。
全集の巻頭に太穂さんの微笑んだ写真が挟まれているが、僕には眼が笑っていないように見える。「お前はだめだ」と今でも叱られているような気がする。
探りあつまでの長き手蓮根堀り
長いのは蓮根の形状そのものよりそれを探す手。泥の中で根気強く目標を追う過程の大切さだ。
実際の蓮根堀りの肉体感覚を入口に太穂さんの生き方や信条に転ずる比喩がきちんと詠み込まれている。党派性の枠よりもまずは優先させねばならない「詩」があること太穂さんは知っていたのだった。
酩酊した太穂さんを支え、腕を組んで屏風ヶ浦前を歩いた記憶が蘇る。
太穂さんは胸を張り、顎をぐいと前に突き出した独特の角度で進む。少し足がもつれる。
太穂さんはそれでも決して足元を見ない。ぐいぐいと前へ、前へ。
内灘闘争で、松川事件闘争で、六十年安保で、太穂さんはこの姿勢で「巨悪」に向って進撃したのだった。
僕も10・21の「東京戦争」の霞ヶ関を思い出す。僕らのジグザグデモは胸を張るどころかかなりの前傾姿勢だったけれど。
「代々木」と「反代々木」のスクラムだぜ、太穂さん。
(了)
古沢太穂三十句 今井 聖 撰
白髪みごとしかし俺には神を説くな
疲れるな鯨のハムをパンにはさむ
食用蛙鳴き昼の湯にただよう垢
鵙鳴くや寝ころぶ胸へ子が寝ころぶ
ロシア映画みてきて冬のにんじん太し
ローザ今日殺されき雪泥の中の欅
何をひるむ湯気いっぱいに霜の馬糞
東京西日金なき妻子家におく
獄出でしや曇り日一点の冬日ほのか
子も手うつ冬夜北ぐにの魚とる歌
白蓮白シャツ彼我ひるがえり内灘へ
ボンベより顔長い馬工区曇る
星座さがす少年に来て松虫澄む
議論のあとのシャワー木槿が頭に透いて
もうむくろに今日ぼろぼろの雲とつばめ(前書・赤城さかえ逝く)
歯が死にしのこぎり鮫の顔雪ふる
蜂飼いのアカシアいま花日本海
怒濤まで四五枚の田が冬の旅
カドミ田のいずれへ瀬音風の盆
草萌ゆる男手ばかりの産後の家
巣燕仰ぐ金髪汝も日本の子
孤児たちに映画くる日や燕の天
牡丹雪の日と記し獄に入るる書よ
走れ雷声はりあげて露語おしう
啄木忌春田へ灯す君らの寮
炎天やなお抗わず税負う屋根
寒夜わが酔えば生まるる金の虹
寒夜しまい湯に湯気と口笛“太陽がいっぱい”
やつにも注げよ北風が吹きあぐ縄のれん
歯こまかき子の音朝餉のきうり漬
●
「街」俳句の会 (主宰・今井聖)サイト ≫見る
2 comments:
今井聖様
古沢太穂論、堪能しました。編集部後記によれば書き下ろしとか。二度びっくりです。太穂氏のポートレイトが魅力的なのはもちろん、定形を使いきるといったあたりのご所説も同感するところ多々。また先頃は、アンケートのご協力有難うございました。
今井聖様
人間として品格を疑う内容です。古沢太穂さんが推薦しなかったために現代俳句協会賞を受賞できなかったとは…?今からでも挑戦したらどうか、主宰だからダメではないはず。現在も組織されている民主青年同盟を侮辱する春歌を書くなど、「街」の女性俳人はこれを知ったらどう思うのだろう。私には関係ないことだが、俳人今井聖の作品は鑑賞したくなくなっことは事実だ。
コメントを投稿