星をつなぐ/時をつかむ
竹中宏「禹歩」(『翔臨』第77号)を読む
小津夜景
『翔臨』第77号。竹中宏「禹歩」が印象に残った。
禹歩とは道教で広くおこなわれる歩行術のこと。呪術的な意味合いのあるこの歩法を身につけると長寿が手に入る上、さまざまな災いを避けることもできるらしい。さっきウィキペディアの解説を見にいったら「半身不随でよろめくように、または片脚で跳ぶように歩く身体技法」と、なんだか土方巽の舞踏しか想い浮かばないような何とも言えない説明のみが書かれていたのでびっくりした。もちろん実際はそんな奇態なものではぜんぜんない(はずである)。
たぶん「禹歩の重要な特色は『摺り足』にあり、太極拳や八卦掌の基本歩術ともなっている」などの書き方なら「あ、それならカンフー映画で見たことあるかも」と思う人もいるだろうし、そうでない人にも雰囲気がずっと伝わりやすい(少なくとも壮大な誤解を与えない)のに(もっともこちらにせよ、もし本当にそんな歩きかたで町をうろついたら、悪い薬と誤解されかねないといった意味では奇態なのだが、私が言いたいこととは別の話)なにゆえ暗黒舞踏なのか。おどろおどろしい方が効き目がありそうだから? あるいはもしかすると、そう単純には書けない経緯があるのかもしれない。
さて、竹中宏の『禹歩』である。これはかなり手の込んだ雑写的編集を感じさせる作品だ。「端的に幸やパン屋をうかがふ蜂」「石榴ならむ繁りに文字は衛戍とあり」などの、接写ぎみで残留感のある視線を、巧みに音韻を曳きずることで表現した句も興味ぶかいが、個人的には「バイクで来るダブルのスーツ鯉のぼり」(きわめて良い風景)「スキンヘッドの紐は眼帯雲の峰」(素敵。イチオシ)「エスカレータ終端の櫛業平忌」(つげ櫛と伊勢物語のカップリングなのにふしぎとモダン)といった被写界深度の深いスナップ風写生が最も好みであった(もちろん、作中にはこの作者特有の「ガム嚙んでは物質枚挙しやめぬ蜘蛛」のごときアナモルフィックな句も存在する)。そしてまた、そうした句の合間を縫うようにして、どことなく感覚のよたついたような、身体をひきずるような、つまり禹歩的歩術を思わせる句が挟まっている。例えば、次のような例。
ぬかるみに蛇紋の轍星の恋
もともと禹という字は、身を折り曲げた雌雄の竜のかさなりあう形象に由来し、鰐や蜥蜴なども意味するらしい。また昔の人は、そんな禹が地面を這いずりくねった際に生じる痕跡の妙を超自然的なものとして捉え、禹歩としてその形を模倣し、北斗七星や九宮八卦の九星の意味と重ねあわせて解釈してきたそうだ(ちなみに、八卦掌には「走圏」という禹歩法がある。これは趟泥歩と呼ばれる「ぬかるみの中を、足を抜かず、うねり流れるように移動する動作」によって円の上をねりあるく歩行術のこと)。
こうした背景から「ぬかるみの蛇紋」といった表現が、禹歩的痕跡へのそのままリテラルな言及であり、かつ「星」という語とペアになっていることは、ほぼ間違いないといえる。またその上に「星の恋」とくれば、この句が三つのペア(雌雄の竜、禹歩と星座、牽牛と織女)を織りあわせた構造だということもわかる。
とはいえ今は、このいわくありげなアストロジック構造に気をとられることなく、あくまでも蛇紋という「曲がったうごき」自体にこだわってみたい。なぜなら、禹歩という主題をダイレクトに反映した句に関する限り、作者の視線は空間の組み立てよりも、対象の非線形なうごきをなぞりつつそれを「時間の痕跡」として掴みだすことの方に強く向かっているからである。
そういう訳で、うねうね曲折したり、くねくね屈折したり、ずりずり跛行したり、などといった禹歩流のうごきを視線でなぞってゆくことで、作者が「時間の痕跡」を捉えている例を見てみよう。
流鶯のめぐれる底の不整脈
下闇を出てからも鳩しのび足
猫わたる旱ざらしのカスケード
最初の句では、作者の視線が「流鶯のめぐれる底」をなぞって、そのうごきを「不整脈」という一定しないリズム、すなわち禹歩流のもたつきを内包する時間として再認しているのがわかる。次の句では、よたよたと進んでは止まり、また進んでは止まるといった鳩の歩行に「しのび足」という摺り足のヴァリエーションが重ねられると共に、なめらかのようでいて決してスムーズに運ばない時間とのひそかな共振を図っている作者の意識が窺えよう。最後の句は、身を焼かれるような日差しの下、険しい裸山と化した滝を猫がうごいている風景だが、作者は「旱ざらし」「わたる」「カスケード」などの語によって、ゆきつもどりつしながら延びてゆく迂曲に一定の強度(なんとなく cascadeur がフランス語でスタントマンを意味することも関係づけられる気がするが、どうなのだろう?)を与えつつ、持続するその強度をつかみとろうとする自己の欲望をもさりげなく描き出している。
上記の三句は、視線が外界の「曲がったうごき」をなぞることで「時間の痕跡」が把持されている例であった。だが当然のことながら「時間の痕跡」は、動く対象を「なぞること」ではなく、動かない対象を感覚の側で「つなぐこと」によっても創り出すことができる。たとえば、次に並べる三句は、感覚の側で随意につくりだした「屈折」「曲折」「跛行」がそのまま禹歩的非線形性となっている例だが、ここではあたかも道士が九星をつなぎあわせて座を創り出してゆくごとく(なおかつその座の軌跡から運命と呼ばれる「見えないはずの時間」をダイナミックにコントロールしてゆくごとく)、作者自身が意のままに諸対象をつなぎあわせることで、そこに新たな時間を生成させると共に、その生成された時間の内に両目を拓く自己を再認してゆくようすも見てとれる。
膝まへの汚れ三味線と皿の瓜
炎熱忌のこめかみ・みぞおち・つちふまず
みんなが降りつぎの猛暑の駅に降る
最初の句は、これといった文脈を顧みないで読むならば、ごく平凡な空間写生のそれに思えるが、ここでは「汚れ/三味線/瓜」の三つの対象を屈折した視線でつないで座とし、さらにその座を根拠(痕跡)とするかたちで己の意識のうごめきを掬いあげた時間写生の作物として読まれるべきだろう。次の「炎熱忌」の句も同様に、内なる眼差しで「こめかみ/みぞおち/つちふまず」の三つのツボをジョイントすることで、うだるような暑さの中にあって冷ややかに浮かびあがる「時間内存在としての自己」を作者がつかみとっているその気配をぜひ味いたい。そして最後の句の「みんな」と一駅ずれて降りるといった行為が跛行のリズム、すなわち禹歩の神髄のそれを反映していることは想像に難くないが、いたって独創的なこの摺り足の発想には、猛暑にさらされ身体をひきずるような光景の描写のみならず、リズムのずれから生じる時間をなぞり、そこに自己の痕跡を複写しようという作者の思惑がおそらく存在するのである。
この作品において、禹歩とは、空間に曲がった線を引くことで時間を可視化し、さらにその可視的時間をなぞることで自己の意識に触れることであった。また「時間を視る」とは、時間の内になすりつけられた自己の残痕に目を凝らすことに他ならず、さらにはその残痕から「自分はそこに存在した」といった信をくみとる行為にもつながっていたようだ。
ところで「なぜ作者は『時間の痕跡』の写生に際し、禹歩流の『曲がったうごき』にこだわったのか?」といった疑問については、以下のような、ごくバナール&シンプルな憶断ですませておきたい。すなわち、曲がるという現象は、時空の中になんらかの差異をうみだすヴィタリテ(生気・力)そのものであり、またそんなヴィタリテの勢いは人間の息づかい(意識の律動)をそのつど引き出す「時空の原書的な書法」を体現しているのである。
回廊からすぐ若駒の闇のへや
この句では「回廊」からほんの少しだけ視線をずらした場所に「闇のへや」が配置されている。おそらく作者は、永遠に安定した(それゆえ時間の観念の存在しない)この円環の外へ目を向けることで、新たな世界を発見するだけでなく、いまだ生傷のような時間の萌芽や、自己という意識への手がかりに触れたことだろう。
奇しくも、視線の曲折の先にあらわれた「闇のへや」には、生命の光をやどす若駒がひそんでいて、闇はそれほど深く感じられない。もしかするとこの「若駒」は、この作者が闇のさなかに繋いだ星、意識のはざまで掴まえた時、すなわちヴィタリテのみずみずしい化身、だったのかもしれない。
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2013-09-08
星をつなぐ/時をつかむ 竹中宏「禹歩」(『翔臨』第77号)を読む 小津夜景
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