【週俳10月の俳句を読む】
そして、すべての把手は
野口る理
風一片灰から灰へのりうつる 西原天気
灰が風に吹かれるさまを、風主体に詠んだ一句。「風一片」という言葉のしなやかさだけでもしばらく愉しめる。「風」が乗り移ったような「灰」の動きを見つめていると、その「風」は次の「灰」へ「のりうつる」という。そこには目が良いというだけではない抒情があるだろう。
灰といえば、“earth to earth, ashes to ashes, dust to dust”というキリスト教の葬儀のときの祈祷の言葉を思い出す。土葬でも灰になるの?と不思議に思ったものだが、やはり聖書の一節。土や灰、塵は類義語とし〈われわれは塵埃から来て、塵埃へ戻る〉ということらしい。「のりうつる」という言葉からも、生死を司るものとしての「風一片」というものを思わずにはいられない(そして、デヴィッド・ボウイが時折見せる生気のない瞳を思った。funk to funky)。
鍋釜に把手やさしき月あかり 上田信治
前書きに〈にぎりしめる手の、ほそい手の、ああひとがすべて子どもであった日の手の 笹井宏之〉。笹井の歌の手は無論「把手」に直結しないが、ゆるく掲句に響きあう。
「鍋釜に把手やさしき」までで切って読んでみたい。「鍋釜」の「把手」が人にやさしいのではなく、「把手」が「鍋釜」にやさしいのである。人へのやさしさとは違い、少なくとも私たちの理屈では語れないやさしさがそこにはある。「把手」のやわらかな曲線、「鍋釜」本体からはみ出てしまうそのフォルム、「月あかり」を返す鈍い光、これらすべてが「やさしき」ものそのものなのだ。そして、すべての「把手」はやさしきものである。
〈つきあかりを鞄にいれてしまいます こんなにもこんなにもひとりで 笹井宏之〉の孤独感へ寄り添う句でもあるだろう。掲句は「月あかり」を「鍋釜」にいれてしまうのではなく、「月あかり」によって「把手」のやさしさにつつまれている。
第337号 2013年10月6日
■高橋修宏 金環蝕 10句 ≫読む
第338号 2013年10月13日
■西原天気 灰から灰へ 10句 ≫読む
■上田信治 SD 8句 ≫読む
第339号 2013年10月20日
■山口優夢 戸をたたく 10句 ≫読む
■生駒大祐 あかるき 10句 ≫読む
■村越 敦 秋の象 10句 ≫読む
第340号 2013年10月27日
■鈴木牛後 露に置く 10句 ≫読む
■荒川倉庫 豚の秋 10句 ≫読む
■髙勢祥子 秋 声 10句 ≫読む
2013-11-17
【週俳10月の俳句を読む】そして、すべての把手は
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